大木惇夫詩碑:流離抄

  西区三瀧山の三滝寺境内に建立されている大木惇夫詩碑「流離抄」です。



































































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註『「落ち舟」はわが郷土広島にては、川上より市街に下る軽舟を一般に呼んでかく言うなり』と大木が解説しています。
*柳絮(やなぎわた)。舟子(かこ)。楫(かぢ)。牡蠣生るる(かき あ)るる。一夜泊て(ひとよ ね)て。灯し(とも)し。
大木惇夫(1895-1977)は、戦時中の愛国詩などによって非難を浴び、戦争協力者として戦後一転して文壇から疎外された経歴の持ち主です。
わたしは、平和記念公園に1961(昭和36)年建立されている祈りの像前にある「平和を祈り御霊を鎮めん」という詩碑ではじめて大木惇夫を知りました。
亡きオヤジが卒業した広島商業に建立されている(原爆死没者)慰霊碑の碑文も大木惇夫の詩が刻まれていました。
ここ三滝寺参道根際に1965(昭和40)年建立の詩碑「流離抄」(流離抄の一節が刻まれています)をみたとき、戦後大木が詠んだものかと思ったのですが、第6詩集「冬刻詩集」[1938(昭和13)年]にある「流離抄」と題する一編という事を、広島県編集「ひろしま文化大百科」で知りました。
それは、北原白秋(1885-1942)の詩にあこがれて20歳で上京した大木でしたが上京を反対する家族に心配をかけ、周囲からは白い目で見られたことで、こう詠んだというのが真相のようで、わたしが解釈した戦後の周囲の白い目とは違っていることを知りましたので、訂正し、この詩の続きも追記しました。
何度か訪ねている三滝寺で、(いままでわたしは)原爆関連慰霊碑を主にみてきましたが、他にも多くの歌碑、句碑、詩碑などの文学碑も建立されています。
三瀧寺発行「安藝之國 三瀧寺観音参詣案内圖」を購入しそこに紹介されている文学碑を今(2007年)回みていこうとしました。どうもこの歳になるまで勉強してこなかったツケというものが影を落とし、碑を拝見しても碑銘さえ読めないものもあるのです。しかし、この案内図には、わたしが読めない短歌、俳句、詩も紹介してあるのでおおいに参考になったのです。
2015年被爆70年に訪ねましたのでこの歌碑も撮影していました。
18.11.21.更新    07.12.22裕・記編集

07.12.08撮影
広島市西区三瀧山411 三滝寺

07.12.08撮影

15.07.12.撮影

15.07.12.撮影
敬称は略しています



「文学碑など」編



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