じぞうじ
地蔵寺

  南区北大河町に創建されている「光明山(こうみょうざん)地蔵寺」です。
※広島新四国88ヶ所第50番霊場です。
※地蔵寺本堂、鐘楼は、1945(昭和20)年8月6日爆心地より≒3,440mで被爆した建物です。  
地蔵寺は、曹洞宗のお寺です。本尊は延命地蔵菩薩。
寛永元(1624)年、大河浦の住人‘ハル’と云う人が浜から古木を持ち帰り‘延命地蔵菩薩’として祈念した所、大火の災難をのがれ、その後伝染病が大流行した時も頓死する者が少なくない時夢のお告げで、団子を作って地蔵尊に供え、祈祷すれば伝染することはなくなるとありそのようにすると悉く災難をのがれたと多くの人の信仰するところになりました。浅野藩主の祈祷所でもあったそうです。
  延命地蔵(えんめいじぞう)=地蔵菩薩の本願のうち、特に延命の功徳を強調した呼称。 
広島新四国八十八ヶ所霊場は、大正7(1918)年に安芸地区に開創されました。
昭和20(1945)年8月6日米軍の原爆投下により途絶えていましたが、
昭和48(1973)年に弘法大師(774-835)生誕1200年を記念して復興されました。
資料によると、本堂・鐘楼は江戸期に竣工の木造建物だそうです。
爆心地より≒3440m  (被爆当時町は仁保町)
2011年11月27日中國新聞いわゆる3面の「受難の仏像 早く戻って」という記事に目が行きました。
『地蔵寺を管理する藤倉さん(72)が11月25日午前11頃訪れた時に仏像などが無くなっている事に気付き広島南署に届けた。本堂に安置してあった、被爆したとされる薬師如来(高さ≒60cm)、被爆したとされる弘法大師像(高さ≒40cm)、被爆したとされる地蔵、掛軸、屋外の地蔵などの計6点でした。藤倉さんは「住民の心のよりどころ。早く戻ってきてほしい」と願っている』という記事(大要)でした。
2011年12月3日中國新聞に「手紙でおわび仏像二体戻る」という記事がありました。
『何者かに盗まれた仏像二体が東区の尾長天満宮で見つかった。17歳の息子が盗んだことを謝罪する手紙が添えてあった。12月2日、広島東署から地蔵寺に戻された。発見されたのは、なくなった仏像など6点のうち薬師如来像と弘法大師像。広島東署によると、東区山根町の尾長天満宮前に、新聞紙で包み、段ボールに入れられていた。手紙には「17歳の息子が黙って拝借してしまいまことに申し訳ありません」と書いてあったという。地蔵二体、掛け軸、仏具の4点は不明のままですが、藤倉さんは「仏像だけでも戻ったので安心した。今後は盗難防止を徹底したい」と話す。広島南、広島東の両署は引き続き、窃盗の疑いで調べる。という記事(大要)でした。
2004年交流ウォークではじめて訪ねた地蔵寺でした。
2008年になって広島新四国88ヶ所霊場復興35年記念法要スランプラリーが催されていたので、印を頂くために立ち寄った時、広島市が設置している被爆建物のプレートをみましたので撮影していましたが、今頃(2009年も終わりになろうとする12月になりましたが)追記しました。
(わたしは)寺院を巡っていますが、最近は、(盗難などから守るためでしょう)本堂に鍵がかかったお寺も多くなったと感じています。また、無住のお寺も散見するようになっています。日中には自由にお参りすることが出来る地蔵寺であったのですが、今後は鍵がかかるようになる?
近年、しばしば仏像などの盗難事件を見聞きします。
「バチが当たる」という言葉が死語になりつつある現代日本の信仰心のなさに由来する事象と思えてなりません。残念で情けないニュースでしたので追記しました。
11.12..04更新   04.12.31裕・記編集

04.12.11.撮影
広島市南区北大河町23-16

04.12.11.撮影

04.12.11.撮影

04.12.11.撮影

04.12.11.撮影
山門と松の木 松に梅の木が根付いています
*2010年11月みた時は、残念なことに枯れていました

08.07.12.撮影
被爆建物
A-bombed Building
被爆時の名称 地蔵寺
(爆心地から3,440m)
この本堂と庫裏は、昭和20(1945)年8月6日の原爆にも耐え、その姿を今日に残しています。
広島市
←被爆建物プレートと松に宿った梅もみました



「神社寺院など」編
(「広島新四国八十八ヶ所霊場」編)


被爆した建物・構築物」編



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(光明山)地蔵寺


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