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南区東本浦町に残されている「(被爆した)本浦説教所」です。 |
資料を見ていたら被爆建物として紹介がありましたので、訪ねたのです。竣工時期は不詳、構造木造平屋。 |
爆心地から≒3,950m (被爆当時町名は仁保町でした) |
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被爆建物 A-bombed Building 被爆時の名称 :本浦説教所 |
この建物は、昭和20(1945)年8月6日の原爆にも耐え、その姿を今日に遺しています。 広島市 |
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※広島市は爆心地からおおむね5km以内で被爆した建物を「被爆建物」と呼んでいます。 |
2007年交流ウォーク探検隊で仁保地区を歩くので、広島市の被爆建物リストの住所を頼りに地図にマークしていたのです。
現地を訪ねたときには軒に鐘が吊り下げてありましたので、お寺かなと思ったのですが、お寺の名前などの看板が1つも無く、使用されていませんでしたが、この建物が本浦説教所だろうなとは思ったのです。近くに居られたおばあさんにもお聞きして本浦説教所と確かめました。また帰宅後資料をみると写真が掲載されておりこの建物でした。 |
広島南警察署の災害避難場所一覧表を見ていたとき、避難所:本浦説教所(本隆寺)、南区東本浦町20-12、
説教室とありました。被爆当時は本浦説教所と云っていたのでしょうが戦後本隆寺と改称したのだと思いましたので追記しましたが、広島市の被爆建物リストではこの建物の所有者は本浦説教所と記述しています。 |
ぶらり散歩する時、会員登録しているNET地図Map Fanも利用するのですが、その地図をみると、ここ本浦説教所には広済寺とありますので、戦後寺号を受けて本浦説教所から広済寺となったと(わたしは)思っています。 |
2010年訪ねた時、広島市設置の被爆建物のプレートが設置されていましたので撮影しました。いまになりましたが追記しました。 |
12.05.04更新 08.01.07裕・記編集 |