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南区日宇那町に創建されている「光明寺」です。
※光明寺(当時・日宇那説教所でした)は、1945(昭和20)年8月6日爆心地から4,960mで被爆した建物です。 |
最初は西福寺(仁保にある)の住職が檀家を決めて定期的に読経と法話をして巡回していたそうで、1873(明治6)年8月当時115戸の門徒が600圓の浄財を集めてはじめて説教場を建てました。
1928(昭和3)年9月30日から(門徒の議がまとまり)浄財を集めはじめ同時に着工にかかり、楠那在住の船大工・竹中良市が大工・正戸多十郎を督励しつつ、翌(1929)年12月25日に竣工し、内陣を合わせて総工費16,452円で完成されたのがいまの前身(日宇那)真宗説教場でした。
戦後、1953(昭和30)年に光明寺と改名されました。 |
(被爆当時は)日宇那説教所といわれていました |
爆心地から≒4,960m (被爆当時町名は仁保町) |
竣工時期は1929(昭和4)年、構造木造平屋。 |
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※広島市は爆心地からおおむね5km以内で被爆した建物を「被爆建物」と呼んでいます。 |
資料を見ていましたので、原爆慰霊碑が建立されているという光明寺に行かなくてはと思っていたのです。
現在お寺の門には鍵がかかり、横手の庫裏の所の扉にも鍵がかかっていましたので、(ご住職が居られない)空き寺(無住)になっているのかとチト沈んだ気持ちになりましたが、お寺の由来などはわたしにはわかりませんでした。
今回交流ウォーク探検隊で楠那公民館を訪ねたときに、冊子「楠那学区の歴史」をいただきました。この光明寺の由来の記述がありましたので、お寺の縁起などは参考にさせていただきました。 |
07.12.30裕・記編集 |