あさひやまじんじゃ
旭山神社
  西区己斐西町に鎮座している「旭山神社」です。
祭神: 息長帯比売命(神功皇后)、品陀和氣命(應神天皇)、宗像三女神(市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命)
相殿神: 天児屋根命、菅原大神、帯中津日子命、太玉命、素盞男命、宇迦之御魂神、柿本人麻呂命
御由緒:その昔、神功皇后が当地にお立ち寄りになり、休息をとられました。その時献上された大きな鯉を見て大変に喜ばれ「こいこい」と仰せられたという故事により地名が「こい」となり当神社が創建されたと伝えられております。
以来、己斐一円の守護神産土神として崇敬されております。1555(弘治元)年10月厳島合戦の折、毛利元就(1497-1571)公が当神社に戦勝祈願の為詣でた際、山上から差し昇る朝日を拝み、士氣大いにあがり「旭山八幡宮」と称するようになったと申し伝えます。又毛利輝元(1553-1625)公が広島城築城の下見にあたり登った山がこの旭山であったということです。
資料に、1945(昭和20)年8月6日原爆により倒壊したが焼失を免れ、1948(昭和23)年復興されたとあります。
爆心地から≒2800m   被爆当時町名は己斐町
広島県神社誌によると、本殿は1937(昭和12)年再建とあります。
        被爆建物 A-bombed Building
被爆時の名称:旭山神社 (爆心地から2,800m)
階段上の本殿、拝殿、旧拝殿は、昭和20(1945)年8月6日の原爆にも耐え、その姿を今日まで残しています。       広島市
2010年4月6日参拝した時、広島市設置の被爆建物の標識がフェンスに取り付けられていることに気が付き撮影しました。
※己斐(こい)という地名の由来は、(地名辞典によると)諸説あると解説し、下記の説を紹介しています。
秋長夜話では、 「山間の地であることから峡(かい)村とする」説。
国郡志書出帳は、 「神功皇后長門の熊襲征伐時、当所に船を止めた所へ、県主大きな鯉を献上、皇后殊に嘉し給ひたる故を以て鯉村となった」説。 
(鯉が己斐になったのは「己はあやに美しい」という意味の「己斐」に変わったといわれているようです)
芸藩通志は、 「筑前宗像に許斐村があり許斐の神社を置く・・・許斐が己斐になったと考える」説。
2005年交流ウォークで(わたしは)はじめて訪ね参拝しました。
それ以来度々参拝し、そのたびに新しい事を知り追記して来ました。己斐の地名について神社由緒板に記述がありますが、地名辞典には、他の説も記述がありましたので追記しました。
2010年、2012年にも参拝し撮影していましたので、撮影画像を整理している2015年のいまになりましたがこの頁を再編集しました。
   15.03.09.再編集    08.10.08追記   05.01.30裕・記編集

05.02.19.撮影
広島市西区己斐西町12-10

10.04.06.撮影
見上げた処が旭山神社です(線路はJR山陽本線)

12.04.21.撮影

05.01.22.撮影
八幡川を渡り(東より)参道へ、標柱と鳥居をみる、長い石段を登って社殿へ

05.01.22.撮影

12.04.21.撮影
社殿

05.01.22.撮影
拝殿内部

10.04.06.撮影
本殿:三間社流造、銅板葺  1937(昭和12)年再建

05.01.22.撮影

05.01.22.撮影

12.04.21.撮影
旭山神社・説明版 旭山神社遥拝所
ここより社殿への石段
明治三拾(1897)年丁酉九月奉納額
(神功皇后に鯉を献上した図)

05.01.22.撮影

05.01.22.撮影

08.09.08.撮影
土井百穀碑銘 忠魂碑:大正11(1922)年10月建之 上野旭峯翁彰徳碑

08.09.08.撮影

12.04.21.撮影

12.04.21.撮影
橋本調二翁頌徳碑 己斐町消防組創立二十周年記念・碑 雙翠萬古・碑



広島の神社仏閣」編


「被爆した建物・構築物」編



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旭山神社
忠魂碑
土井百穀碑銘
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橋本調二翁頌徳碑
 己斐町消防組創立二十周年記念・碑
(鳥居神社額)有栖川宮親王書
御即位紀念植樹・碑
雙翠萬古・碑
(旭山神社からみる)己斐の街並み


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