土井百穀夫妻の墓所
  西区高須台に建立されている「土井百穀夫妻の墓」です。
(土井百穀は、)名は積善、通称は善右衛門、号は百穀。家は代々己斐村の里正であった。
早くから育英に心を注ぎ、遷喬舎(せんきょうしゃ)・土井学校・日彰館などの塾や学校をひらいた。
また地方議会発足後は広島県会議員として活躍しました。
明治16(1883)年4月11日※没。従五位が(大正13年2月11日)贈られた。顕彰碑が旭山神社境内にある
昭和55(1980)年3月  己斐公民館・己斐の歴史研究会
旭山神社境内に建立の土井百穀碑銘によると明治16(1883)年4月15日没となっています。
2005年交流ウォークで訪ねましたのでこの頁を編集しました。
06.02.13裕・編集

05.01.22撮影
広島市西区高須台一丁目     墓所は高須台団地の開発時に移設整備されたようです

05.01.22撮影
りせい
里正
律令制下、715年施行の郷里制の下における里の長。

1)中国の地方行政単位の一。漢・唐代では100戸、明代の里甲制では110戸から成る。
2)律令制の地方行政区画の一。50戸を一里とし里ごとに里長を置いた。715年、里を郷(ごう)と改め、郷の下に二、三の里を設定(郷里制)したが、740年ごろ、この里は廃され、以後郷として残存した。
3)条里制において360歩(六町)四方の区画。
4)距離の単位。律令制では五尺を一歩とし300歩(五町)を一里とした(一般には六町一里も行われた)。近世では三六町(3.6〜4.2km)。メートル条約加入後、1891(明治24)年に43.2kmを十一里(一里は約3.927km)と定めた。
ごうりせい
郷里制
律令制で、715年から740年頃まで行われた地方行政制度。国郡里制における50戸一里の里を郷と改め、その下に二〜三の里を置いたもの。740年頃里は廃止され、郷制に移行。



「広島ゆかりの人たちのお墓」編



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土井百穀夫妻の墓所
土井百穀碑銘
己斐小学校発祥の地
(神社銘板揮毫)森の大歳社


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