さいらくじ
西楽寺

  西区草津本町に創建されている「宗高山(そうこうざん)・西楽寺」です。
※西楽寺・本堂は1945(昭和20)年8月6日爆心地から5,100mで被爆した建物です。
爆心地からの距離は(広島市設置の被爆建物標識は5,000mとしていますが)
平和資料館発行「ヒロシマの被爆建造物は語る」の5,100mを採用してこの頁を編集しました。
西楽寺は、浄土真宗本願寺派のお寺で、本尊は阿弥陀如来。
開基年代は「藝藩通志巻五十三」に『西楽寺草津村にあり、武田刑部當國に来る時、甲斐國蓮光寺僧永頓従来り己斐村に往せしが、享禄年間(1582-1532)當寺を建立す』とあります。
戦國乱世時代、甲斐国・武田信賢(1420-1471)は安藝國の国主になる際、佛護庵を始め松蔭坊、勢隆坊、十蔵坊など合わせて十二坊を連れ銀山城下山本の地に来ました。十二坊の筆頭松蔭坊永頓は、草津に来往し「松蔭坊屋敷」を開きました。初めは時宗、後に浄土真宗に改宗。その後己斐松原新地に寺所を構えていましたが、草津己斐方面の信徒の召請により慶長16(1613)年第二世信了は「草津松蔭坊屋敷」に移住し西楽寺を開基しました。
元和9(1623)年本願寺より西楽寺の寺号公称を認可せられ初代永頓より、前住職昭観、現住職宣之と相伝え十九代目になります。本堂天井には、江村直治画伯による平安絵画の模写「阿弥陀聖衆来迎図」(大きさ:2間×4間)が描かれています。また、墓苑には草津から出た力士「」雪見山弦五郎」の墓標があります。草津まちづくり会
資料では、1880(明治13)年竣工の本堂は、原爆の爆風で天井が落ちたそうです。
爆心地より≒5,100m    (被爆当時住所草津本町568‐1だった)
※広島市設置の被爆建物標識には爆心地から5,000mとなっています
※広島市は爆心地からおおむね5km以内で被爆した建物を「被爆建物」と呼んでいます。
  この西楽寺が一番遠い被爆建物としています。
爆心地から5kmも離れたこのお寺にも原爆による被害があったのかと、それほど原爆が強烈だったことを物語っているのだなとおもいました。
2010年交流ウォーク下見で訪ねた時、被爆した建物・鐘楼が解体され新しい鐘楼になっていました。
2012年いままでなかった広島市設置の被爆建物標識が設置されていました。
12.12.20更新   05.03.27裕・記編集

05.03.21.撮影
広島市西区草津本町12‐2

05.03.21.撮影
 (被爆した)本堂

05.03.21.撮影

05.03.21.撮影

07.06.16.撮影
本堂天井の、江村直治画伯による平安絵画の模写「阿弥陀聖衆来迎図」

08.09.28.撮影

05.03.21.撮影

05.03.21.撮影
木鼻の獏(バク)彫刻 鐘楼
(しょうろう)
鐘楼:
寺院の、梵鐘(ぼんしよう)をつるす堂。かねつき堂。しゅろう。
(きばな)
木鼻:
社寺建築で、頭貫(かしらぬき)などの端が柱から突き出た部分。多く、装飾として象や貘(ばく)などに似せた彫刻が施され、象鼻・貘鼻・拳鼻(こぶしばな)などと呼ばれる。



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