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南区京橋町の北端、京橋川が猿猴川とわかれる付近を「台屋の鼻」と云われています。
※“台屋の鼻”の先端に「小さな石碑」が建立されていますので、この頁で取り上げました。 |
戦前までは台屋町(だいやちょう)でしたが、1965(昭和40)年4月1日(住居表示変更で)台屋町は京橋町に含まれ消滅しました(ので、平成の世になり台屋町は忘れらてきています)。 |
石碑の建立年月はわかりましたが、何の石碑(石柱)かはわたしにはわかりません。 |
わたしは、広島駅から駅西高架橋・歩道橋を渡りオヤジの墓がある源光院に行くのです。
その時に通る此処を「台屋の鼻」と呼ばれている事を知らなかったのですが、2005年交流ウォークの時に教えてもらったので知ったのです。
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戦前まではこの辺りを台屋町と呼んでいたことは源光院を調べている時に知っていたのですが、「台屋鼻」は京橋川が猿猴川と分かれる先端によることから名づけられということを資料で知りました。
またただ単に「出鼻(でび)」とよんでいたことも知りました。
台屋鼻、出鼻とは昔の人が使っていた地名だったことがわかったのです。 |
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わたしは、町名・台屋(だいや)から「だいやのはな」と読んでいましたが、2007年交流ウォークの時「だいおく(台奥)」なのではと云われた事があったのです。その時は答えることができませんでした。 |
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広島県地名辞典の台屋町(だいやちょう)をみると
『江戸期~昭和40(1965)年の町名。江戸期には安芸国安芸郡比治村のうちに形成された町。・・・町内の浄土宗源光院は開山の名によって台屋(臺屋)寺と呼ばれていましたが、1751(寛延4)年この寺号を町名とした。はじめは(だいやと云わずに)「だいおく」と呼んだ。・・・』とあるのです。 |
そうか!そこから“だいおく”と云われていたのだろうと思い、“台奥”という漢字ではなく町名と同じ台屋だったのだろうという考えに至ったので、今(2011年)回追記しました。 |
駅から源光院に行くとき見ていましたが撮影することもなく、江戸時代は現在のような近代的な堤ではなかったのだろうな~と思いながら2015年撮影していました。 |
この頁掲載の画像を見直し、また撮影日付順に並び替えて2016年の今になりましたが再編集しました。
2005年、2006年はまだプレジャーボートが川の中に係留されていましたが、現在は不法係留になるということで一掃されています。
2007年撮影の小さな石碑の画像も見直しました。 |
16.04.22.再編集 05.08.19裕編集 |
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05.02.10撮影 |
広島市南区京橋町 (駅西高架僑西詰北側) |
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05.07.16撮影 |
(上柳橋東詰付近から出鼻先の波消し床をみました) |
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05.09.17撮影 |
(猿猴川に架かる)駅西高架僑 と 出鼻 と (京橋川に架かる)上柳橋 |
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05.09.17撮影 |
(京橋川架橋)上柳橋歩道部分中央付近から出鼻をみました |
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06.01.21撮影 |
京橋川から左:猿猴川、右:京橋川に分かれています |
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08.05.05撮影 |
(親水施設として階段が整備されています) |
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15.01.11.撮影 |
(駅西高架僑歩道橋南詰付近からみました) |
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地図は広島市都市整備局 住宅部・京橋会館資料を使用しました |
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台屋の鼻の(小さな)石碑 |
2007年1月交流ウォークの時に、この出鼻の先端に石碑があったことに気がついたのです。
刻んだ文字が消えかかっており何とか奉行という字かなと読めました。
同(2007)年3月になって再度みて、享保二(1717)年という文字がわかりました、1717年といえば藩主は広島藩中興の祖といわれる浅野吉長でしたが、農村支配を強化した事で1718(享保3)年大一揆がおこり失敗したという前年ですので関係があるかなと?と思ったのですが、よくはわかりません。
また、この石柱がもともとの大きさ(長さ)だったのかという疑問もあります。 |
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正徳年間(1711-1716)の広島城下町絵図をみると、現在のように尖ってはいなくて丸っこい地形をしてその南側すぐは(字が不鮮明なのですが)栽木屋?と読めるような(材、場とは読みづらい)記入があります。源光院も今よりは広いと思われる範囲で描かれていました。 |
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07.01.20撮影 |
出鼻の地上部分に小さな石碑が建立されていました |
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07.01.20撮影 |
刻まれた文字は読めまなかったのです |
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07.03.12撮影 |
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07.03.12撮影 |
享保二(1717)年 三月■ 奉行■ |
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