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中区上幟町の京橋川右岸に残っている「雁木、裏木戸」を取り上げました。
※これらの構築物は、1945(昭和20)年8月6日被爆し、こんにちまで残っています。
※上幟町裏木戸は爆心地から≒1,440mの位置だったそうです。 |
京橋川は、かつて、明星院川とも、神田川とも呼ばれていました。
江戸時代の初期には、西国街道に橋が架けられ、都(京都)に向かう橋として「京橋」が誕生して京橋川となり、明治以降は京橋川と呼ばれました。
江戸時代は小路には武家屋敷の表門が、川辺には裏木戸が置かれました。
裏木戸では、日常の生活として洗濯などの他に、小舟が雁木造りの石段から生活物資を陸揚げしていました。小舟が雁木造りの石段から生活物資を陸揚げし、反対に糞尿を船に載せていました。
明治以降も舟運が残っており、その当時の生活遺産だそうです。 |
*資料は広島市企画総務局都心活性化推進課発行「西国街道めぐり」を参考にしました。 |
資料には、京橋川右岸、栄橋から稲荷大橋にかけては(被爆した)多くの裏木戸が残ると記述があります。 |
爆心地から≒1,440m 被爆当時町名:上柳町 |
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この附近はいままで自転車に乗って、あるいは歩きながら幾度もみていたのですが、わたしは深く考えることもなかったのです。
ここ京橋川河岸の石積みが被爆前からのものであることを少し下流の被爆エノキの説明板で知ったのです。
資料をみていたら被爆した構築物として記載がありましたので、2007年改めて撮影に行ったのです。
(京橋川をもう少し下っていった右岸にも雁木、裏木戸が残っています) |
13.04.15.更新 07.07.23裕・紀編集 |
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07.06.22撮影 |
広島市中区上幟町13 京橋川河畔の雁木と裏木戸 (栄橋と上柳橋の間) |
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07.06.22.撮影 |
木戸を取付けるためのRC枠が残っています |
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07.06.22.撮影 |
雁木を川側からみました |
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07.06.22.撮影 |
07.06.22.撮影 |
07.06.22.撮影 |
川側からみました |
木戸をつるした錆びた金物 |
石積に落書きがありました |
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07.06.22.撮影 |
07.06.22.撮影 |
敷地側からみました |
川側からみました |
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11.04.07.撮影 |
(雁木・裏木戸の風景に変化が) |
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12.02.04.撮影 |
桜と雁木・裏木戸 |
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13.04.05.撮影 |
(桜咲く)雁木・裏木戸附近 (向こう上流:被爆橋梁:栄橋)、手前:上柳橋手摺、右側;出鼻 |
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