(光禅寺境内建立の)三戰役紀念碑
  佐伯区五日市の光禅寺山門を入って根際に建立されている「三戦役記念碑」です。
※明治44(1911)年1月(当時の)五海市村によって建立されました。
1889(明治22)年4月1日市町村制施行時、(佐伯郡)五日市村+海老塩浜+皆賀村=五海市村発足。
1911(明治44)年10月1日村名改称と同時に町制施行で五日市町になりました。
明治27・8年戦役:
(日清戦争)
1894(明治27)年8月から1895(明治28)年にかけて日本と清国の間で戦われた戦争。
朝鮮進出政策をとる日本は、宗主権を主張する清国と対立、甲午農民戦争(東学党の乱)を機に両国は朝鮮に出兵、日本軍は豊島沖で清国軍艦を攻撃し開戦に至った。日本軍は平壌・黄海・威海衛などで勝利し、1895(明治28)年4月、下関で講和条約締結。
明治33年事変:
(北清事変)
1899(明治32)年〜1900(明治33)年。列強の進出に抗した中国民衆の排外運動。
山東に始まった義和団の運動が華北一帯に波及、北京の列国大公使館区域を包囲攻撃するに及び、日・英・米・露・独・仏・伊・墺(オーストリア)連合軍の出兵を招き、鎮圧された。北清事変。(義和団事変)。
明治37・8年戦役:
(日露戦争)
1904(明治37)年2月から1905(明治38)年にかけて、満州・朝鮮の支配をめぐって戦われた日本とロシアの戦争。
ロシアの南下政策に対して日本は英・米の支持の下に強硬政策をとり開戦。日本軍は旅順攻略・奉天会戦・日本海海戦で勝利を収めたが、軍事的・財政的に限界に達し、ロシアでは革命運動の激化などで早期戦争終結を望み、両国は米国大統領ルーズベルトの勧告をいれて、1905(明治38)年9月ポーツマスで講和条約を締結した。
(てらうちまさたけ)
寺内正毅:
(1852-1919)
現在山口市生まれ。長州藩士。陸軍軍人(元帥)、政治家。
第18代内閣総理大臣(在任:1916(大正5)年10月9日-1918(大正7)年9月29日)。元帥陸軍大将従一位勲一等功一級伯爵。
1918(大正7)年8月2日シベリア出兵を宣言したが、米騒動の責任をとって同(1918)年9月21日総辞職した。
2007年光禅寺を訪ねた時、山門を入ると左手に三基の石碑が建立されていましたので撮影しました。
三戰役紀念碑と尊皇碑は名称こそ異なりますが、忠魂碑として建立されたもののようでした。
2015年訪ねましたので撮影していました。いままでこの「三戰役紀念碑」と「尊皇」碑を一緒の頁で編集していましたが、今(2018年)回分離独立したこの頁を編集しました。
18.03.22.分離編集  07.03.17裕・記編集

07.02.07撮影
広島市佐伯区五日市2-1-1  光禅寺
「至孝山中直武碑」  「尊皇」碑  「三戰役紀念碑」

07.02.07撮影





































07.02.07撮影





































15.05.28.撮影
「至孝山中直武碑」  「尊皇」碑  「三戰役紀念碑」

15.05.28.撮影

15.05.28.撮影

15.05.28.撮影
(碑表面) (碑裏面)



軍都・廣島関連施設戦跡など」編



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「旧(佐伯郡)五日市町」編


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