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佐伯区五日市の光禅寺墓苑に建立されている「ニック・ユソフさんのお墓」です。 |
1945(昭和20)年8月6日、原子爆弾は無情にも突然広島文理科大学学生寮にいたマレーシア留学生ニック・ユソフさんを襲ったのです。
彼は広島から西部郊外に逃げる途中この辺りで息耐えました。光禅寺星月晨人住職は境内墓苑にイスラム式の墓碑を建てて埋葬しました。ユソフさんのかっての同僚や有志、広島大学関係者などは年に1度ささやかながら慰霊行事を毎年続けているそうです。 |
ユソフ君の墓
マレーシアの人 1943(昭和18)年南方特別留学生として来日
廣島文理科大学在学中に被爆し 当地にて死亡
享年20歳 謹んで哀悼の意を捧げる
広島大学原爆死没者慰霊行事委員会 |
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南方特別留学生は、1945(昭和20)年8月6日9名の内8名が大学構内あるいは宿舎・興南寮で被爆し、マライ出身のニック・ユソフさんは翌日佐伯郡五日市町まで逃げてきたものの死亡、被爆数日後ニック・ユソフと書かれた紙が貼付けられた遺骨がお寺に持込まれ、他の多くの犠牲者とともに光禅寺に埋葬されたそうです。
住職は、祖国を遠く離れ留学中の死を悼み1964(昭和39)年5月NIK YUSOF と彼の名を刻んだイスラム式の墓を建立されたそうです。 |
「南方特別留学生」とは |
東南アジアの日本軍占領地で軍政当局と現地の人の間に入って指導的立場となる人材を養成する、「大東亜共栄圏」の占領政策の一環として生まれたものでした。
1943(昭和18)年〜1944年にかけてマライ、スマトラ、ジャワ、ビルマ、フィリピンなどから205名が集められました。1944(昭和19)年4月に広島高等師範学校には20名が入学しました。1945(昭和20)年4月配置換えがあり、9名が広島文理科大学の‘特設学級’で勉学していました、そのうちの4人が原爆の犠牲になったそうです。
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資料:西尾隆昌氏著広島のいしぶみはみつめるを参考にしました |
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2000年頃から原爆関連の慰霊碑を巡りをはじめたわたしは、元安川緑地帯に建立されている興南寮跡・碑で、南方特別留学生のことを知り、五日市にその中の一人の方の墓標が建立されていることを資料で知ったのです。時は2007年のいまになりましたが、光禅寺門徒会館でそのお墓の位置をお聞きし、碑の前で頭を垂れ、撮影しました。 |
2015年久しぶりに訪ね頭を垂れた後撮影しましたので、この頁を再編集しました。 |
15.11.27.再編集 07.03.16裕・記編集 |