(光禅寺)覚潭の手水鉢

  佐伯区五日市の光禅寺に設置されている「覚潭の手水鉢」です。
光禅寺本堂前の手水鉢に、以前はなかった説明板が設置されていましたので撮影しました。
読むと、覚潭は光禅寺三代住持に仕えたとありました。
以前お寺の事を調べた時に、「1580(天正8)年第3代祐了の時五日市の現在地に(光禅寺は)移った」事を資料で(わたしは)知りました。
説明板には、この手水鉢で筋力強化の稽古をしたとありますが、この手水鉢には「貞亨五辰年三月十日」と刻まれています。貞亨5年は西暦で1688年ですので、この手水鉢で身体を鍛えたということには時代的にチト無理があるように思います。
この説明板の説明文は「五日市町誌」より引用したとありますので、力自慢の覚潭という人物が江戸時代にいたことは間違いないでしょうが、この手水鉢が覚潭にゆかりがあるということにはチト無理があり、身体を鍛えた手水鉢は、この手水鉢の前の手水鉢と思われるものだったのだろうと(わたしは)思ったのです。
覚潭(かくたん)の手水鉢(ちょうずばち)      五日市西国街道散策倶楽部
覚潭は、旧佐伯町永原の農家・新八の子で、幼少のころは身体が弱く農業は無理だと悟った両親は、僧侶になる事を勧めました。覚潭は、得度を承知し光禅寺・覚了の弟子になり、のち三代の住持(じゅうじ≒寺の主僧)に仕えました。
その後、驚くばかりの筋力を身につけ、次第に有名になり、武者修行や力比べを望む者たちが多くなってきました。その筋力強化稽古に使ったのがこの手水鉢といわれています。
武者者が来訪すると小指の太さもある鉄火箸を手にし、囲炉裏の火種をつくろい鉄火箸を藁縄をなうように縄のようにすると武芸者はほとんどがそんおまま退散した伝わっています。
広島城下からの帰り道、井口村の小己斐峠にかかると二人の山賊が「身ぐるみ置いていけ」と襲って来た時、覚潭は二人の手を握ると帯に挟みつけ引きずるように光禅寺まで連れ帰り、やがて山賊は前非を悔い仏弟子となったという事も伝わっています。
また、広島藩主浅野公からたびたびお呼びがあり、多くの場合は武者修行の者が来て、その御前試合の助太刀だったということも伝わっています。力自慢の覚潭に縁あるのがこの水鉢です。
(ちょうずばち)
手水鉢:
手を洗う水を入れておく鉢。
(ちょうずいし)
手洗石:
水鉢(みずばち)、たらい石、水盤(すいばん)とも呼ばれています。
社寺に参詣するとき嗽手水(うがいちょうず≒口をすすぎ、手や顔を洗い清めること。)に身を浄め、新しい気持ちになって尊前に向かいます。そうした習慣は古くから行われたと思われます。
江戸時代になると手水石は全国にひろがり、鳥居と同様に手水石のない神社はないほど多く造られました。
2012年訪ねた時に、この新しい説明板が設置されていましたので撮影し、光禅寺関連の頁として編集しようと思ったのです。
力自慢の人物というものは歴史を経て伝えられている事を南区真幡神社で三代十郎兵衛之塚をみて知りましたので、この光禅寺で仕えた「覚潭」という人物も取り上げようと思ったからです。
頁を編集しているときに、
説明板が設置された手水鉢は上記のような時代的な矛盾があるように思いましたが、力自慢の人物・覚潭がいたと伝わっていることには間違いないのではと(わたしは)思っていますが。
12.10.09.裕・記編集

12.04.22.撮影
広島市佐伯区五日市2-1-1 光禅寺

12.09.15.撮影

12.09.15.撮影
貞亨五辰年    寄進 妙念   三月十日

12.09.15.撮影



「神社寺院など」編



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光禅寺
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(境内の)至孝山中直武碑
(境内の)覚潭の手水鉢
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(本堂横の)広島市保存樹11イチョウ


「旧(佐伯郡)五日市町」編





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