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佐伯区五日市の光禅寺山門を入って根際に建立されている「尊皇(軍神杉本五郎中佐)」碑です。
※昭和16(1941)年3月10日(当時の)五日市尋常高等小学校職員児童一同によって建立されました。 |
(正面) |
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(裏面) |
皇 尊 |
陸
軍
中
將
板
垣
征
四
郎
書
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常
に
我
あ
り
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尊
皇
精
神
あ
る
處
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尊
皇
に
生
き
よ
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汝
吾
を
見
人
と
要
せ
は
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軍神杉本五郎中佐 純忠至誠ノ傑士ナリ |
支那事變ニ際シ大命ヲ奉ジ勇躍出征炎熱ヲ冒シ飢渇ヲ忍ビ進撃月遂ニ |
昭和十二年九月十四日山西省宛平縣東西加斗閣山ノ攻略戰ニ於名譽ノ |
戰死ヲ遂ゲ中佐最後ノ突撃ニ臨ムヤ從容筆ヲ執ツテ碑表面ノ遺訓ヲ手帳 |
ニ書キ識シ決死ノ中隊ヲ率ヒテ敵陣ニ突入尢文字ノ大刀ヲ揮ツテ數人 |
ヲ斬リ更ニ奮闘閣山ノ奪取將に成ラントスル時敵手榴彈炸裂シテ左背部 |
ヨリ胸部ヲ貫ク鮮血淋漓トシテ口邊ニ迸ル豪毅ノ中佐ハ倒レントシテ倒 |
レズ蹣跚トシテ剱ヲ杖ツキ静カニ黎明ノ東方ヲ拝シ聖壽ノ萬歳ヲ念誦シ |
ツツ直立不動ノママ瞑目ス嗚呼何ゾソノ死ノ壯烈ニシモ崇高ナル鬼神モ |
爲ノ泣キ部下將兵モ皆地ニ伏シテ慟哭セリト云フ時ニ午前五時ヲ過グル |
コト少頃ナリ齢三十八 |
五日市尋常髙等小學校職員児童一同・・・(略)・・之ヲ茲ニ建設ス |
昭和十六年三月十日 佛通寺 山崎益洲書 |
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杉本五郎(すぎもと ごろう:1900-1937
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陸軍軍人(最終階級:陸軍中佐)。広島県安佐郡三篠町(現在・広島市西区打越町)生まれ。旧制修道中学校卒業。(第五師団)歩兵第11連隊入隊。陸軍士官学校(33期)本科卒業。
軍務の傍ら広島から毎週1回(現在・三原市の臨済宗・仏通寺に修養に(出征までの9年間)通ったそうです。(∴碑文を佛通寺山崎益洲の書で、軍神の順皇忠誠の遺烈を不朽に伝えるため碑の建立)
遺著に「大義」があります。『葉隠武士道に傾倒した精神主義者として知られ、天皇のために死することが軍人の最高の美徳であると説いた。』
支那事変の際昭和12(1937)年9月14日山西省で死亡、享年36歳 |
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板垣 征四郎(いたがきせいしろう:1885-1948) |
陸軍軍人。盛岡市出身。陸軍大学校卒。
満州国軍政部最高顧問、関東軍参謀長、陸軍大臣などを務めた。 敗戦後、東京裁判にて死刑判決(1948年12月23日に絞首刑)を受ける。現在は靖国神社に合祀されている。 |
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2007年光禅寺を訪ねた時、山門を入ると左手に三基の石碑が建立されていましたので撮影しました。
三戰役紀念碑と尊皇碑は名称こそ異なりますが、忠魂碑として建立されたもののようでした。 |
2015年訪ねましたので撮影していました。いままでこの「尊皇」碑と「三戰役紀念碑」を一緒の頁で編集していましたが、今(2018年)回分離独立したこの頁を編集しました。
裏面の碑文を今回読んでみて、杉本五郎中佐の壮烈な戦死が記述されていました。 |
18.03.22.分離編集 07.03.17裕・記編集 |