さいこうじ
最広寺

  佐伯区五日市に創建されている「用明山 最広寺」です。
最広寺は、浄土真宗本願寺のお寺で、本尊は阿弥陀如来です。
開基は、長州藩毛利輝元(1553-1625)の家臣で古川嘉兵衛吉光という人です。
古川嘉兵衛吉光は浄土真宗に帰依し、発心すると藩主より平素の忠勤を認められ先祖伝来の身丈四寸六分(≒13.9cm)の木像一体を下され、現在この仏像はお寺に安置されています。
1648(慶安元)年に佐伯郡五日市村に移り、私財を投じ境内や付近の住宅地や山林を購入し、名を霊向と改め、1655(明暦元)年に一宇を建立し最光寺と称しました。
1843(天保14)年に寺号の許可を受けました。1880(明治13)年9月27日用明山最広寺と号する公称の許可を受け現在に至っています。
現在の住職は十四世で、350余年間法灯を絶やすことはありません。
ちょうしゅうはん
長州藩
江戸時代、周防、長門の両国を領有した藩。外様。萩藩、山口藩、毛利藩ともいいます。
藩主・毛利氏はもともと安芸国吉田(のち広島)を本拠とする戦国大名であり、中国地方8か国を領有する120万石の大名でした。しかし1600(慶長5)年毛利輝元は関ヶ原の戦いに敗れて防長2国に減封されました。
城を、萩に築いて入部した輝元は、領内東部3万7000石を吉川広家(ひろいえ)に分与して岩国領、西部4万7000石を毛利秀元に与えて長府藩(豊浦藩)、南部2万石を毛利就隆(なりたか)に与えて徳山藩をつくらせました。長府藩はそのうち1万石を割いて清末(きよすえ)藩をつくりました。こうして領内に3藩と1領ができますが、これら支藩に対して親である長州藩のことを本藩・宗藩といいます。
1610(慶長15)年輝元は両国内の総検地を実施し53万石を検出しましたが、幕府はこれを36万余石と認定し、これが朱印高として藩の公式石高となりました。
輝元は防長入部時には隠居していたので、初代藩主は秀就(ひでなり)が就任していました。
もうりてるもと
毛利輝元
1553-1625
安土桃山時代の武将。元就(1497-1571)の孫。織田信長(1534-1582)に反抗し、豊臣秀吉(1536-1598)の攻撃を受けたが、本能寺の変によって和睦。のち、秀吉に仕えて五大老の一人となったが、1600(慶長5)年関ヶ原の戦いで西軍に参加したため、所領を長門・周防2国に削られました。1623(元和9)年(1623)年正式に隠居しました。萩の四本松邸で死去。
2007年このお寺の東に位置する光禅寺を訪ねた時に、この最広寺の山門を見てお寺をはじめてみてはいました。由来などがわかりませんでしたが、五日市町誌を見た時このお寺の記載がありましたので撮影し頁を編集しようと思っていました。時は過ぎ、2012年のいまになりましたが、訪ねました。
2007年当時なかった五日市西国街道散策倶楽部の説明板が設置されていました。
12.10.08.裕・記編集

12.09.15.撮影
広島市佐伯区五日市3-6-3

12.09.15.撮影

12.09.15.撮影

12.09.15.撮影

12.09.15.撮影



「広島の神社寺院など」編



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「旧(佐伯郡)五日市町」編





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