こごい みょうじん
小己斐明神

  西区井口明神の西部埋立第二公園に残されている「小己斐明神の鳥居」です。
※住所井口明神の名の由来にもなっているようです。
小己斐明神           平成21(2009)年11月 井口・鈴が峰魅力さがし委員会
小己斐明神は、その昔平清盛(1118-1181)が厳島神社を造営の際、鈴ヶ峰から木を切り出し刻印を打ち筏を組み、この明神の浜から送り出したことから「刻印の明神」といわれていました。
寛政3(1791)年に己斐村の人々が阿瀬波(あせば;汗馬)地先に入川新開を造成、己斐旭山神社より分祀し、「刻印の明神」と併祀、「小己斐明神」といわれるようになりました。また、子宝の神「子乞(こごい)明神」とも呼ばれました。御神体は、大正2(1913)年大歳神社に合祀されました。
井口沖が海だった頃、男明神と女明神と呼ばれた二つの島があり夫婦島として有名でしたが、昭和初期現在の国道建設で女明神島が姿を消し、男明神島(現・小己斐島)だけが残りました。小己斐明神は、岡岷山(1734-1806)の都志見往来諸勝図「井ノ口」に描かれています。昭和20年代以降、小己斐島は船溜りの防波堤の一部にもなり井口漁港として使われました。いまも当時の雁木の一部が残り往時を者がっています。
*1 昔は、海岸線に沿って夫婦島と呼ばれた男明神島と女明神島であったそうで、現在の国道2号線の工事の時に女明神島がなくなり、西部開発事業の時に男明神島もなくなりそうになりましたが、地元の要望で西部埋立第二公園の中に残されることになり今日に至っているそうです。
*2 「小己斐明神」は、子乞い明神、刻印の明神とも呼ばれ、平安朝末の創立と伝えられており、祭神は市杵島姫命といわれ、弘治元(1555)年(己斐の)旭山神社の分祠を合祀しています。
以前は、鳥居と島の頂上に祠があったそうですが、台風などでたびたび飛ばされ、現在は再建された鳥居があるだけで祠はありません。また、小己斐明神は(井口二丁目)大歳神社に合祀されています。そして、井口明神という町名でその名を残しています。
仕事の関係で、広電宮島線・井口駅で何度も乗り降りしたことがあるので、この小己斐明神のことはなんとなく知っていましたが、2007年交流ウォークの時「小己斐島の保存について」という広島市設置の説明板でもう少し地学的なことを知りましたので、小己斐島の頁を編集しその中で、小己斐明神の事にもふれていました。
2010年交流ウォーク下見の時に説明板が設置されており、以前の写真も紹介がありましたので撮影し、この小己斐明神の頁を編集しました。
12.03.23裕・記編集

10.05.01撮影
広島市西区井口明神2-10  西部埋立第二公園

10.05.01説明板撮影
(説明板の写真を撮影し使用しました)

10.05.01説明板撮影
(説明板の写真を撮影し使用しました)



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