善福寺
  中区中島町に建っている「仁保山・善福寺」です。
仁保山善福寺は、浄土真宗本願寺派のお寺です。
知新集によると
仁保山善福寺は、沼田郡廣島中島新町にあり、佛護寺うちの光圓寺末寺です。開基は專祐といい長禄2(1458)年安藝郡仁保之島のうち本浦に菴居し禅宗・西福寺と號していました。二世慶祐永正7(1510)年入寺し、その後仁保之島の大河へ移って本願寺派に改宗しました。三世順西(慶長5年=1600年入寂)の時廣瀬村空鞘へ出ました、四世慶順(慶安元年=1648年入寂)の時いまの寺地へかわり一宇建立しました。その頃は西福寺とも善福寺ともいい慶順坊ともいっていたようで、古圖絵には慶順坊とあり、山號の仁保山は專祐開基の地をもってきたもので、善福寺は後に西福寺の西を善にかえたものとして知られています。』とあります。
現在南区仁保にある西福寺前にある(仁保郷土史会設置の)説明板と上記知新集の記述に違いがあります。
知新集の記述にもありますが、寺号というものが江戸時代前期頃までは確定的なのもではなかったと想像はできますが。
戦前の地図をみると(現在吉島通りなどが整備され区画整理が成されているようですが)被爆時とほぼ同じ位置に位置しているのです、(わたしの)被爆建物巡りの参考図書「ヒロシマの被爆建造物は語る」には被爆した墓石などの記述がありませんが、墓地を拝見した処、被爆した墓石(と明らかに思われる)墓石を散見しました。
今(2012)年になって元安川河畔の浄圓寺の頁を編集した時に、似島説教場の事を思い出し、似島町民のほとんどが(現・広島市中区)「浄圓寺」か「善福寺」の門徒になっているということも併せて思いだしたのです。
ここで取り上げた「善福寺」は何処だろうと思ったのです。
地図をみると吉島通り沿い広島市文化交流館北側に位置しています。このお寺の前を過去何度も通っているのに調べてみようとも思っていなかった事に自身の迂闊さに呆れているところです。
 12.08.02.裕・記編集

12.07.18撮影
広島市中区中島町9-10

12.07.18撮影

12.07.18撮影
本堂

12.07.18撮影

12.07.18撮影

12.07.18撮影
合塔 被爆した墓石



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