こくたいじ あと
国泰寺跡

  現在の中区中町と小町にわたって創建されていた国泰寺の跡を説明する説明板です。
このあたりは広島の名刹(蓬莱山)国泰寺があった場所です。
広島築城当時、僧恵瓊(?-1600)により臨済宗の寺院安国寺として1594(文禄3)年創建されました。関ヶ原の合戦後、毛利氏が防長二州へ転封となり、替わって福島正則が入国しました。
1601(慶長6)年福島正則(1561-1624)は弟の普照(ふしょう)を尾張から招き住職とし、寺容を一新しました。この時、宗派を臨済宗から曹洞宗とし、寺号を国泰寺と改めました。寺号は豊臣秀吉(1536-1598)の戒名「国泰祐松院殿霊山俊龍大居士」に因るものといわれています。
福島正則が城の無断改修の責めにより転封された後、紀州の浅野氏が入国し、以後明治維新まで浅野家が治めました。浅野氏は国泰寺を菩提寺とし、寺領(四百石付与など)厚遇のもと国泰寺は藩内140寺の中心となる大寺となり、境内の広さも1町7反(約130m四方)に及んだといいます。
蓬莱山・国泰寺は創建以来何度か大火にあい、1945(昭和20)年8月6日原爆で焼失、現在は西区己斐3丁目975-5(己斐上の山腹)に再建されています。
広島市指定史跡  旧国泰寺愛宕池    指定昭和59(1984)年11月28日
この辺りは、旧国泰寺の境内にあたります。この池は、ここに国泰寺の鎮守愛宕社があったことから愛宕池と呼ばれるようになったものです。愛宕社は1601年国泰寺開基当時から存在しており、この池は当時のおもかげを残しているもので、城下町形成初期の遺構として貴重なものです。
またこの池は、白神社の境内に連なる岩礁の一部を利用して池としたもので、城下町形成初期の頃の海岸線はこの附近であったと推定され三角州形成の一つの里程標としても意味深いものです。なお、池石の一部に彫られた竜は満潮時には遊泳したという伝説を伝えています。
(以下国泰寺創建、現在地など記述ありますが上記と重複しますので略しました。)
昭和60(1985)年3月広島市教育委員会
国泰寺の跡とだけは知っていましたが今(2005年)回の交流ウォーク時に説明板を読み、隣に位置する白神社の岩礁と繋がり17世紀初めは海岸線であったと云うことなどを知ったのです。
2007年愛宕池跡の部分を撮影しました。
2010年説明板が新しく(文章は同じでしたが)なっていました。
10.10.17.更新    05.09.27裕・記編集

05.09.25撮影
広島市中区中町7-6の一部及び小町10-1の一部

10.06.17.撮影
(2005年撮影した説明板が2010年新しくなっていましたので画像を取り替えました)
江戸時代に編纂された「知新集」を参考に中尾氏が描かれた国泰寺鳥瞰図

05.09.25撮影
旧国泰寺愛宕池

07.05.20撮影

07.05.20撮影



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国泰寺
国泰寺跡
  (国泰寺跡)被爆した樹木
  (愛宕池跡の)二等水準点


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