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中区平野町にお祀りされている「日切地蔵尊」です。 |
発祥:平野町に祀る日切地蔵尊の発祥については定かでありませんが、大正のはじめ堀川町の畑吾兵なる人が地中より見出されたこの尊像を自宅に安置し「日を切って諸願を成就させる」ことから日切地蔵と云い、講を作って日々の供養を勤めたそうで、大正中頃平野町で製材業を営む丸山氏が地所を提供しお堂を建てこの地に移したのが平野町のお地蔵さんとなったはじめだそうです。
1945(昭和20)年8月6日原爆によってお堂は灰燼に帰し、地蔵尊と賽銭筒及び破損した「かね」だけが焼け残りましたが、「かね」は1972(昭和47)年まで使用していましたが同年8月に大鈴に代えました。畑吾市氏は爆死されました(享年62歳)。
1953(昭和28)年広島市の都市計画により地蔵尊の安置場所を失う事態となりましたが町内会長の田中隆男氏が自己の所有地を提供し「平野町町内会のお地蔵さん」となりました。 |
2006年交流ウォークではじめて訪ね、藤井先生がお持ちの日切地蔵の由来書でこの地蔵尊の縁起を知ったのです。 |
07.01.05裕・記編集 |
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