(五日市町)宍戸氏館跡

  佐伯区海老山町海老山公園に過ってあったという「宍戸氏館跡」です。
※現在はその残り香はありません。説明板で往時を偲ぶだけになっています。
戦国時代に、毛利家家臣の宍戸氏は、殿山と海老山の間に居館を構え、陶氏との合戦に備えました。戦前までは石垣が残っていましたが、広電宮島線の海老塩浜踏切の軌道敷に利用され、館跡の名残となっています。館は海老山町3番地〜海老山町5番地の間の国道2号線をまたぎあったとされれています。
佐伯郡の「国郡志下調郡辻書出帳」の古城跡の項に『五日市村海老山城主宍戸備前守』とあり海老山城跡があったと考えられ、「芸藩通志」所載の「五日市村絵図」には北麓に『宍戸宅跡』と記し、「佐伯郡誌」には北麓に家中の屋敷跡の石垣残存し、中腹の小高い所に宍戸備前守の宅跡があったとしています。 
(いつくしまのたたかい)
厳島の戦い:
1555(天文24)年10月1日、主君大内義隆を殺して領国を奪った陶晴賢(すえはるかた:1521-1555)を毛利元就(もとなり)が厳島に敗死させた戦い。
毛利氏発展の基となる。
陶軍兵力は2万とも3万ともいわれ、毛利軍兵力は4千から5千といわれています。
(ししど もといえ)
宍戸元家:
(1434-1509)
安芸の国人、安芸国五龍城(広島県安芸高田市甲立)主。通称:悪四郎、安芸守。常陸宍戸氏の宍戸時宗の子として生まれたとされる。(安芸)宍戸興家の五龍城に立寄った事で、1478年当主になる。子に宍戸元源・深瀬隆兼・宍戸家俊。
(ししど もとよし)
宍戸 元源:
(? -1542)
安芸の国人宍戸氏の当主、安芸国五龍城主。1504年家督を継ぐ。近隣国人・毛利弘元(1466-1506)の子興元(1492-1516)とたびたび抗争、のち、毛利元就(1497-1571)が高橋氏の旧領の一部を割譲などし元源に接近、1534年嫡孫・隆家の妻に元就の娘を迎え、毛利氏と和睦。
 宍戸元家:
 (1498-1518)
宍戸(弥三郎)元家。嫡男であったが21歳の若さで討死。
  (ししど もとひで)
 宍戸 元秀:
 (1547-1597)
父は宍戸(弥三郎)元家。子に宍戸元続。
1592年父・隆家が死去するが、病弱などを理由に既に廃嫡されていたため、子の宍戸元続が宍戸氏の当主となる。
(ししど たかいえ)
宍戸 隆家:
(1518-1592)
安芸国の国人宍戸氏の当主、安芸国五龍城主。安芸守。1538年家督を継ぐ。のちに毛利氏の家臣、毛利元就の娘(五龍局)を妻として毛利氏一門衆となる。
子に元秀(廃嫡)。嫡孫となる宍戸元続(1563-1631)に跡を継がせた。
(ししど もとつぐ)
宍戸 元続:
(1563-1631)
毛利氏の家臣。安芸宍戸氏当主。備前守。安芸五龍城主。主君・毛利輝元は父方では従伯父、母方では従兄に当たる。1592年家督を継ぐ。
朝鮮出兵では朝鮮に渡海、1597年毛利軍の先鋒を務める。1600年関ヶ原の戦いで毛利輝元は周防・長門2ヶ国に減封、元続も(父祖伝来の地である)五龍城を去り、萩に移住。
説明板が設置される前にこの海老山公園をぶらり散歩したことがあり、ここ宍戸氏館跡の上に位置する(毛利方の宍戸孫六が陶軍に攻められて家来三十人が亡くなり、葬ったという)三十人塚を訪ねていましたので、宍戸孫六という人物に注目したのですが、2007年当時はわからなかったのです。
2010年交流ウォーク下見で訪ねた時に説明板が設置されており、ここに「宍戸氏館跡」の説明板が設置されて上記説明文がありましたのでこの頁を編集しようと思いました。説明文を読みましたが、理解不足のわたしにはわかりませんでしたので、チト調べてみました。
厳島合戦(厳島の戦い)当時(毛利元就の家臣、宍戸氏の当主は隆家で、「国郡志下調郡辻書出帳」でいう備前守ではなく安芸守だったので、時代が下り、毛利輝元の周防・長門2ヶ国に減封で主君に従い萩へ下った宍戸元続であったのではないのかと(わたしは)思いました。スペースが限られた説明板では説明しきれないことが多いのだろうなと思うと、ともに、説明板の文章の表現の難しさを思いながら、2012年のいまになりました。
そして、よくわからなかった「孫六」夢に出てくるのかなと思いながらこの頁を編集しました。
12.01.27裕・記編集

10.07.03撮影
広島市佐伯区海老山町海老山公園

10.07.03撮影

10.07.03撮影



「古墳遺跡遺構など」編



広島ぶらり散歩
宍戸氏館跡
(宍戸氏家来)三十人塚


「旧(佐伯郡)五日市町」編


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