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佐伯区海老山町の薬局の建物の外壁に設置されている「五日市漁港跡」の説明板を取り上げました。 |
「芸藩通志」によると五日市村には十三艘が、海老塩浜には六艘が記され、当時の船舶は大船ではなく、近回りの荷物運搬を主としたものでした。
年貢米や塩浜で生産された塩などの輸送にあたり、所収絵図によると五日市村や海老塩浜は、海老山の西側を深く入り込み深い入り江になっており、波が静かで風の害がほとんどない良港であったと思われます。
港には山口県周防大島から製塩業に必要な「石炭船」や、北国から綿作用の肥料・干鰯(ほしか)を乗せた「北前船」の出入りもありました。
北部一帯八幡川には川船による輸送も行われていたことが寛政9(1797 )年の「都志見往来諸勝図」に描かれており、現在の八幡地区郡橋付近まで船が上っていたようです。 |
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ほしか
干鰯;乾鰯 |
脂をしぼった鰯(いわし)・鰊(にしん)を乾燥させた肥料。
江戸時代から明治時代にかけ、油粕(あぶらかす:アブラナなどの農作物から油を搾り取った残渣)とともに一般的に用いられた金肥。速効性があり、化学肥料普及以前の農業生産力の上昇に大きな影響を与えた。 |
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広島藩では、三白といわれる産業を振興していました。(広島地区などの)綿花栽培。(竹原地区などの)製塩。(大竹地区)製紙。で、干鰯は、綿花栽培の肥料にしていたものです。 |
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2010年交流ウォーク下見の時、海老山を散策し降りてきた所でみた説明板でした。
わたしは(昔のこの辺りの)五日市漁港に来たことがありませんでしたので、この辺りまで入江になっていたのかと思いました。2007年に交流ウォーク下見で訪ねたこの海老山町の西側海老園3丁目の海老塩浜跡をみに来た時は、水路がまだ残り、整備されていたなと思ったのですが今(2010年)回は養生網が設置され、埋立が進んでいるようでした。 |
2016年佐伯区五日市港のコベルコ建機に移設されている「油谷重工国民義勇隊慰霊碑」をJR五日市駅から歩いていっている途中、この「五日市漁協跡」説明板を以前撮影した時の構図が悪かったので撮影しましたので、尾の頁を更新しました。。 |
16.07.16.更新 12.01.31裕・記編集 |