(五日市の)海老塩浜跡

  佐伯区海老園にいまも残されている「海老塩浜」の一部です。
(五日市の)海老塩浜の跡
佐伯区楽々園1~4丁目や海老園1~2丁目は江戸時代に造った干拓地です。
海老山の西側で塩浜があって、たくさんの塩を作り佐伯郡や山県郡へ売り出していました。
しかし、他の地方で立派な塩を多く作りだしたのでこの浜の塩作りはだんだん衰えて塩浜も狭くなり、明治のはじめごろには今の海老園2丁目の南半分だけになり、1911(明治44)年※には塩作りを止めることになりました。
(※資料によっては、1912(明治45)年には塩作りを止めることになったとあります。)
2007年には設置されていなかった説明板(下記)が設置されていることをJR五日市駅自由通路に設置の“五日市まちめぐり散策路”という地図で知りましたので訪ねたのです。
海老塩浜(かいろうしおはま)跡     広島五日市ライオンズクラブ
江戸時代初期に広島藩は、海老山の西に塩浜を開設しました。
製塩法は従来の小規模な「揚浜式塩田」で、やがて新開地の開発により溝を掘り海水を導き入れる広い面積を持つ「入浜式塩田」に移りました。
「海老塩浜」は、万治年間(1658-1661)に、五日市村西沖に広がる干潟を干拓したもので、海老山西側にあり塩浜を開き海老塩浜とまづけられその後は広島藩に認められました。
延宝3(1675)年の地詰帳によると、総面積55町3反6歩(約5.6ha)の内、塩浜が21町2反3歩、田が10町7畝、畠が23町8反8畝20歩、屋敷が8畝3歩と、三分の一以上が塩浜となっています。
  “芸藩通志”によると、この浜では年間千百石の塩を生産するとあります。
1斗2升または2斗入りの苞(かます)に入れ、苞の形を兜巾頭(とんきんがしら:修験者が被る頭巾)のようにした独特のものを用いたと伝わっています。当時この浜の塩は広島藩内主として佐伯郡、山県郡方面および北国方面にも販売されていたそうです。
明治45(1912)年までに閉鎖され5、その後塩浜は完全に埋め立てられ当時の姿を残すために、新地ポンプ場西に表面をコンクリートで覆い当時の浜の高さのまま保存されています。
因みに、北端部を「中土手」、南端部を「沖土手」といい、跡地は「古浜」と呼び、やがて現在の海老園ができました。
広島藩は海老山(かいろうやま)の西一帯に塩田を開きました。
1881(明治14)年五日市村と海老塩村が合併して五海市村になりました。
1911(明治44)年海老塩浜の塩づくりが止められるまで塩がつくられました。
1911(明治44)年10月1日五海市村が村名改称の上、町制施行で五日市町となりました。
※資料によっては、1912(明治45)年には塩作りを止めることになったとあります。
昔社会科で習った塩つくりの工程を踏んで広島湾で塩を作っていたとしても何ら不思議ではないのでしょうが、わたしは、この地で塩を作っていたことを2007年はじめて聞いたとき広島藩でも作っていたのかとおもったのです。
2016年説明板が設置されたことを知りましたので、訪ねてみました。
海老塩浜がより詳しくわかり、この塩浜の一部をコンクリートで覆って残されていることを知りました。
16.07.21.更新    07.07.22裕・記編集

07.02.07撮影
広島市佐伯区海老園2

07.02.07撮影
塩浜跡の説明板かと思いましたが「きけんなのでこの中にはいってあそばないこと」という注意板でした。

16.07.16.撮影
今(2016年)回は少し遠くからも撮影しました

16.07.16.撮影
東側から塩浜跡をみました

16.07.16.撮影

16.07.16.撮影
西側から塩浜跡をみました

16.07.16.撮影
(西側の)ちびっこ広場に設置の説明板
2007年当時の塩浜跡付近の地図、2016年現在水路が埋立てられ周囲が変わっています
JR五日市駅自由通路に設置の「五日市まちめぐり散策路」という地図の一部です



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