元祖もみぢ饅頭・高津堂

  廿日市市宮島口西で営業している元祖もみぢ饅頭・という「高津堂」を取り上げました。
   高津常助、(宮島の)紅葉谷入口で茶店を開く
高津常助は、1886(明治19)年5月10日生まれ1951(昭和26)年没。
大阪で菓子職人となり、大阪名物岩おこし等の卸し商として宮島にやって来ました。紅葉谷入口近くに茶店を開き、岩惣旅館へ茶菓子の納入を手掛けていました。
   伊藤博文のひとことから生まれたもみぢ饅頭
伊藤博文(1841-1909)は、紅葉谷に遊ばれることがしばしばありました。
或る日、茶店の可愛い娘が、お茶をさし出した手をみて「もみぢのように可愛い手だね・・・」と冗談を云うのを聞いた「岩惣」の女将から、客に出す饅頭作りの依頼を受けた常助はもみぢの葉形をしたもみぢ饅頭を考案しました。
常助は、紅葉谷にある旅館「岩惣」の女将からもみぢを形どった饅頭作りの依頼を受け、菓子店「高津堂」で1906(明治39)年頃に完成させ、その後岩惣とコンビで販売しました。
常助が亡くなるとほぼ同時期に高津堂と元祖もみぢ饅頭は一代で終わりました。
2009(平成21)年常助の孫にあたる宏明によりここ宮島口で再開しました。
常助は、紅葉谷公園入口付近に店舗を構え、製造販売しました。間口の大きな店で、大きな木製の看板には、元祖もみぢ饅頭 高津堂と書かれていました。店に入ると二間幅の焼きかまど、横には道具掛けや商品を並べる棚、包装台などがあり、道路からも見え、焼き立てが買える魅力で盛況でした。
   図面をもって何度となく大阪に出向く
「高津堂」の常助は、もみぢを形どったもみぢ饅頭を1906(明治39)年頃に完成させました。
味は、小豆を大釜で炊きジャッキで締めて漉(こ)した餡は甘さが口に残らない為二つ目につい手が出るほどの好評でした。饅頭は経木に包み、上にラベルを貼りました。ラベルには「元祖 もみぢ饅頭」と墨書きされていました。
1910(明治43)年7月18日には、商標登録「紅葉形焼饅頭」を獲得しました。
製造販売も軌道に乗り、常助は職人養成にも力を注ぎ、のち宮島菓子組合長も務めました。
※高津堂の店に貼出されていた‘もみぢ饅頭’の由来書きを参照しました
ここ宮島口に、もみじ饅頭の元祖である高津堂があることは知りませんでした。
2003年もみじ饅頭関連の頁を編集しだして、もみじ饅頭の考案者が高津常助と云うことを知りましたが、その店が現在では途絶えたものと思っていました。
時は過ぎましたが今頃になって一度途絶えた高津堂が再開されたことを知ったのです。
わたしは、1990年から1992年まで、まだ佐伯郡大野町時代(2005年11月3日廿日市市に編入消滅しました)に宮島桟橋近くで仕事をしていたし、2007年ここから東すぐの任助親王墓を訪ねた時もこの高津堂をみなかったな〜〜と思っていました。
2009年になって常助の孫に当たる方が、ここ宮島口で高津堂のもみじ饅頭を再開したことを知り、2012年10月交流ウォークがはじまる前に、訪ねてみたのです。
13.01.03.裕・記編集

12.10.20.撮影
廿日市市宮島口西2-6-25  

12.10.20.撮影

12.10.20.撮影
(スーパー)多加津堂の前に、もみじ饅頭を製造する高津堂が設置されています

12.10.20.撮影

12.10.20.撮影
「紅葉形焼饅頭」



「食べ物」編



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もみじ饅頭(概説)


「旧(佐伯郡)大野町」編


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