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廿日市市大野八坂に鎮座している「残念社」です。 |
1866(慶応2)年7月9日、四十八坂を単騎で西に向かって馳せる幕府軍の武士がいました。
これをみた長州軍は戦闘員だと勘違いをして、狙撃してしまいました。其の武士は「残念」といって斃れました。後にこの武士は、丹後宮津藩士の依田伴蔵で、軍使として長州軍営に赴くことが分かり、長州軍は遺憾の意を表しました。
残念社は、村人が伴蔵の戦死を悼んで祭ったものです。
命を奉じて軍騎敵営に向う 哀心願う所は、只和平 惜しいかな涙を呑んで中道に斃る 暮畔長に留む残念の声 |
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『戦前までは、依田伴蔵命日の7月9日には、伴蔵の故郷・京都宮津から舟を仕立ててお参りに来ていたそうで、海岸から此の地までの道沿いには露店が並び賑わい、また、近所の人は竹を切り竹筒にして参詣者に売り、参詣者は根際の谷川の水を汲み万病に効く水として持ち帰ったと伝えられているそうです。』と大野歴史ガイドの会・西尾会長に教えていただきました。 |
通称「残念さん」と云われているそうで、もともとは供養塚が村人によって建立され、そして雨露をしのぐために祠を建てて残念社としたように(わたしは)思いました。
また現在の祠は棟札から昭和46(1971)年11月19日建立されたことが分かり、鳥居は昭和47(1972)年7月9日に建立されたことも分かりました。
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09.12.31裕・記編集 |