(旧大野町中山の)今川貞世歌碑

  廿日市市大野中山の中山集会所前の方に建立されている「今川貞世歌碑」です。
14 今川貞世(号:了俊)の歌
足利義満(1358-1408)によって九州探題に任ぜられた今川貞世(1326-?)がその下る途中、中山を通過した時のことを紀行文「道ゆきぶり」にしるしています。
貞世は1371年9月21日佐西を出て地御前神社西の干潟から山を越えて大野中山に来たとそうで、ここで朝の風景を『長月の有明の月影、しらじらとの頃て、木の下露は、まことに笠も取りぬべく、所狭き紅葉の色濃く見渡されたる中に、椎の葉の嵐に白く靡きて、松の声、山川の音に響き会いたる朝朗、身にしみて覚えたり。<ここで二首>古集(万葉集巻七1099)に侍るらん「向かいの岡に椎蒔きて」といふことの、ふと思い出で侍りてよめるなるべし』と綴っているそうです。
朝朗(あさぼらけ) 明け方、あたりがほのぼのと明るくなりかける頃。あけぼの。
いそじ(ぢ) 〔「ぢ」は接尾語。「はたち」の「ち」と同源〕(1)五〇歳。50年。(2)五〇。
今川貞世の「道ゆきぶり」(東から下って西に行く)とは逆にJR 大野浦駅から東に向かってぶらり散歩したわたしでしたので、ここ旧大野町に建立されている3基の今川貞世の最後になりましたが、ここ大野中山の歌碑を訪ねました。歌心というものを持ち合わせていないわたし(50はおろか60を過ぎていますが)ですが、どことなく都から下っていく(人生の下りとダブらせているのか?)寂しさを感じた歌でした。
10.01.10裕・記編集

09.10.19撮影
広島県廿日市市大野中山 (中山集会所の前の方)   

09.10.19撮影












































































  今川貞世が九州探題として任地に下るとき、應安四(1371)年9月21年當地において詠んだ歌二首
今川貞世 (いまがわさだよ:1326-1420?)
  室町前期の武将歌学者。俗名・貞世。了俊(りょうしゅん)法号。範国の子。足利義詮(室町幕府二代将軍:1330-1367)義満(1358-1408)に仕える。
1370(応安3・建徳元)年九州探題に任ぜられ、翌年10月京都を出て中国地方を通過して12月九州へ至る。1372(応安5・文中元)年大宰府を陥落させ北九州を平定するなど、九州経営に力をそそいだ。1384(至徳元・元中元)年より遠江守護。1395(応永2)年京都に召還され25年間にわたる九州探題を解任されたが、駿河半国の守護を与えられ、遠江に下る。1399(応永6)年応永の乱に際し大内義弘と鎌倉公方との連携をはかり失敗。以後和歌、連歌、述作活動で余生を送り、1420(応永27)年頃遠江で没したと考えられる。
冷泉為秀(?-1372)に師事、和歌連歌をよくした。著「難太平記」「言塵集」「落書露顕」「九州問答」など。



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