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南区似島町字東大谷の現在・広島市似島臨海少年自然の家敷地内にある「クスノキの大木」です。 |
旧陸軍第二検疫所があったこの辺りでは一番大きなクスノキで、樹齢は100年を超えておりここで在った戦争にまつわる出来事をみてきたということで「くすの木じいさんの話」(下記)が語られるようになっています。
1945(昭和20)年8月6日原爆で傷ついた人々が市内から船で運ばれ、この施設でも救護がなされましたが多くの方々が亡くなっていった地ということでもみてきたクスノキでもあります。 |
くすの木じいさんの話 |
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(似島臨海少年)自然の家の公園には、百才をこえる「くすの木」があります。
このくすの木は、100余年もの長い間生き続け、いろいろな事を見てきました。
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家族や恋人と別れ、外地へ出兵した兵士たち・・・。
病気になり、ケガをして外地から帰ってきた兵士たち・・・。
ロシヤ兵やドイツの捕虜もいました。 |
1945(昭和20)年の8月には、広島に落とされた原子爆弾に焼かれた人々が送り込まれてきました。
太陽にでも焼かれたような全身大ヤケドの子どもや大人が、ぞくぞく運び込まれてきたのです。
顔のひふがとけてずれ落ち、まんじゅうみたいにふくれた手の子供。
長い美しい髪をちりじりに焼かれた娘さん・・・。
その時、くすの木じいさんは、悲しくて悲しくて大つぶの涙をぼたぼたと流 しました。
似島に来たら、くすの木じいさんのいる臨海公園に来てください。
そして、今は平和だよー!ぼくらが平和を守っているよーと、呼びかけてください。
ふるさと似島は「くすの木じいさんを二度と泣かせない」という思いで作られています。
太陽にでも焼かれたような全身大ヤケドの子どもや大人が、ぞくぞく運び込まれてきたのです。
顔のひふがとけてずれ落ち、まんじゅうみたいにふくれた手の子供。
長い美しい髪をちりじりに焼かれた娘さん・・・。
その時、くすの木じいさんは、悲しくて悲しくて大つぶの涙をぼたぼたと流 しました。
似島に来たら、くすの木じいさんのいる臨海公園に来てください。
そして、今は平和だよー!ぼくらが平和を守っているよーと、呼びかけてください。
ふるさと似島は「くすの木じいさんを二度と泣かせない」という思いで作られています。 |
※「くすの木じいさんの話」は、ふるさと似島編集委員会発行(編集責任者:浜本義幸氏)「ふるさと似島」より引用させていただきました。 |
ふるさと似島編集委員会発行(編集責任者:浜本義幸氏)「ふるさと似島」などを参考にして広島ぶらり散歩「似島」編の各頁を編集しています。この冊子の表紙の裏に「くすの木じいさんの話」が書かれています。
わたしはこのクスノキに呼び掛けていませんので再び訪ね呼びかけなくてはと思っています。この話には、平和の願いが込められていますので、「平和祈念碑など」編の一頁として加えようと編集しました。 |
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連絡船の中で「ふるさと似島」@500円/1冊で売っていることに帰りの時に気が付き購入しましたので、2009年3月似島を訪ねた時は、このクスノキに声を掛けていませんでした。2010年になりましたが訪ねました。 |
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2010年2月9日似島を再び訪ねた時、この「くすの木じいさんの木」をみて声を掛けなくてはと思っていましたので、少年自然の家でこのクスノキの場所を教えていただき立寄りました。説明板がありますのですぐわかりますよと教えていただきました。その辺りには説明板を付ける立札はクスノキの前に建っていましたが 、説明文は無くなっていました。しかし、この周辺ではこのクスノキが一番大きいようでしたので、あなたがくすのき爺さんですよね!と声を掛け、平和を願う一人の人間として、このクスノキを撮影し頁を編集しました。 |
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10.02.09撮影 |
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2015年久しぶりに似島を訪ねましたので、ここ広島市似島臨海少年自然の家敷地のこのクスノキもみて撮影しました。以前はなかった説明文が貼り出されていましたので、ここを訪れることも達にも「くすの木じいさんの話」のクスノキとすぐわかるようになっていました。 |
15.10.26.更新 10.03.19.裕・記編集 |