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南区似島南風泊(似島慰霊碑の東側)に2014年整備された「慰霊の広場」です。
※この地は多数の被爆者の遺骨が発掘された跡地なのです。
面積は≒1,900uあるそうです。南北の両端に高さ≒1.5mの小高い丘を作り、似島小学校、似島中学校の児童生徒が「しあわせを願う塔」「平和を願う塔」と名付け、斜面に四季の花が咲くようにし、他のスペースは、太田川デルタと似島の形をあしらった花壇を配したそうです。
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〜わたしたちは人類恒久平和と被爆犠牲者追悼の願いを込めこの広場整備管理します〜 |
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似島地区コミュニティ交流協議会/広島市南区市民部地域起こし推進課 |
1945(昭和20)年8月6日(月)米軍によって原子爆弾が広島市に投下されました。
第2次世界大戦時、似島には第一検疫所・第二検疫所・馬匹検疫所かからなる陸軍検疫所が設置されており、その関係で多数の被爆者が船で運ばれ、これら検疫所が臨時野戦病院となりました。医師や島民の懸命な介護の甲斐もなくその多くはなくなり、この地に葬られました。 |
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2004(平成16)年に「火葬されていない遺骨がこの地に今も眠っている」と云う島民の声に広島市が戦後第3回目の遺骨発掘作業を行い、その作業に多くの島民が携わり、多くの遺骨・遺品を発掘しました。
翌’(平成17)年には、この地に設置されていた慰霊碑を隣接地に移動整備しました。
この度国有地を借用することができたことから、島に残る史実を後世に伝えるため、遺骨発掘場所跡地にこの広場を(2014年4月に)整備したものです。 |
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2004(平成16)年5〜7月(3回目の)発掘調査をして、85人分の遺骨と、名札など遺品65点が見つかりました。調査終了後は埋め戻され更地となっていました。
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似島の遺骨
1945(昭和20)年8月6日の原爆投下直後、陸軍第二検疫所は負傷者を収容する臨時野戦病院になりました。8月25日に閉鎖されるまで、推定1万人の負傷者が運ばれました。
遺体は当初、近くの馬匹(ばひつ)検疫所で火葬されていましたが、やがて間に合わなくなり、そのまま埋葬されたそうです。
広島市は、1971(昭和46)年と1990(平成2)年、そして2004(平成16)年の計3回発掘調査を行いました。 |
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2015年久しぶりに似島慰霊碑を訪ね頭を垂れた後、道路を挟んで2014年整備されたこの「慰霊の広場」を撮影しましたので、この頁を編集しました。 |
花壇の管理は難しいようで、説明版にあった広島の6本の川、似島の形をあらわした花壇を撮影しようと思いましたがわたしにはよくわかりませんでした。
「平和を願う塔」の近くに行き撮影した後、道路に戻ろうとしたとき、草むらからキジが急に飛び出して林の方に飛び去って行きました。小心者のわたしは驚いたのでここに書きました。 |
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2019年1月8日中國新聞をみていて『似島の「慰霊の広場」復旧進まず』という記事に目が留まりました。
『昨(2018)年7月6日の豪雨で裏山が崩れ、「平和を願う塔」などが土砂にのみ込まれた。住民たちがボランティアの手を借り、土砂や木を取り除いたが、まだ多くが残ったままだ。枯れた花も目立つ。・・・・
広島市は、民家に近い土砂崩れ現場の復旧を優先させるため、広場の復旧は3月末となる予定。区地域起こし推進課の松本亜紀課長は「住民の思いは共有している。一日も早い復旧に努めたい」としている。』とありました。 |
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新聞報道で似島の各所で土砂崩れが発生し、復旧が遅々として進んでいないと報道で知っていましたが、この慰霊の広場も被害に遭ったことを(わたしは)中國新聞記事で知りましたので追記しました。 |
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19.01.08.更新 15.10.25.裕・記編集 |