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南区宇品町の中の金輪島についてこの頁で取り上げています。 |
金輪島は、南区元宇品町の東方約1kmにある島です。
全島が南区宇品町町域で、花崗岩からなる島です。
面積は、1.06ku(南北1.8km、東西0.8km)。海岸延長≒5km。最高点は南部の標高159.4mの峰です。
居住者は、一般民家約40人、造船所の寮に約100人のほか、広島市内等からの通勤者が、約250人いるそうです。
(※2010年国勢調査時点で人口107人となっています)
現在、金輪島へは市営桟橋から約1時間に1便ほどの定期(連絡)船がでており、約10分で到着します。 |
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「金輪島」の名は、広島呉街道の坂海岸から鉄輪が地面に置かれた形状に見えたことから鉄輪島と呼ばれていたそうで、そこから金輪島と変わっていったようです。 |
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江戸時代中期までは、無人島でしたが、1749(寛延2)年に京橋の平野屋茂右衛門が島にハゼノキを植え、1760(宝暦10)年頃に和ろうそく工場を設けましたので、島には、商工業者が集まって町ができました。
しかし、原料のハゼの実が計画通りに実らず、1770(明和7)年に事業を中止したため、人々は島を去り、再び無人の島となりました。(今もこのハゼノキ園のなごりのハゼノキが、北東部に数多く残っています。)
1894(明治27)年日清戦争が始まると、宇品港は陸軍の軍事基地となりました。その目の前の金輪島には、陸軍運輸部の造船工場が設けられ、島全体が民間人立入り禁止となりました。
1929(昭和4)年安芸郡仁保村から広島市に編入されました。
戦後、1951(昭和26)年陸軍の造船工場は、民間造船所・金輪船渠(株)*に(払下げられ)引継がれました。
1967(昭和42)年の山火事により、約70haが焼失しました。(が、もともと大木は少なく、今でもあまり大木は見られません) |
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1951(昭和26)年金輪船渠(株)設立
1988(昭和63)年西武建設が買収、子会社。1998(平成10)年西武造船に名称変更。
2006(平成18)年新来島どっくが買収、新来島宇品どっく設立。 |
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資料をみて原爆関連の慰霊碑が建立されている事は知っていましたが、(南区宇品町ですが)渡船で行く事になることから市内や似島の原爆関連慰霊碑や戦争関連遺跡から知らねばと、慰霊碑を訪ねたことはありませんでした。 |
もう四半世紀も前になりますが(金輪島原爆慰霊碑が建立される前)、金輪島に住むのはどうかなと女房に話し、訪ねた事がありました。自然環境はいいな〜と思いましたが、連絡船が欠航になった時の会社務めのわたしには適していないこと、子どもも小さい時で学校、病院がないこと等から終の棲家とはなりにくいと思った事があったのです。 |
2011年は、金輪島原爆慰霊碑に頭を垂れ撮影することを主目的に訪ねました。 |
2015年も、金輪島原爆慰霊碑に頭を垂れ撮影することを主目的に訪ねました。
今回は、金輪神社、(碑銘板が剥ぎ取られた)塔も撮影しましたので、頁の更新と新しい頁を編集しました。 |
15.10.12..更新 11.07.27裕・記編集 |