(御曹子山)源範頼の五輪塔
  佐伯区三宅に建立されている「源範頼の五輪塔」です。
源範頼のお墓については尾ひれが付いた話があり、広島にもその伝承があるのです。
2005年、西区古江上の福蔵寺を交流ウォークのとき訪ね教えていただいたのです。その時佐伯区の方にもあると知ったのです。佐伯区の資料をみているときにこのお墓の場所を知り訪ねたのです。
源範頼終焉の地に関して、
伊豆市・日枝神社下にあった信功院に墓があり(信功院は徳川時代に廃止され)現在は庚申塔一本を残している。
横浜市金沢区片吹・太寧寺境内にも伝源範頼墓があり、太寧寺の寺伝では「かねさは」の地迄逃がれて太寧寺に入って自害したとされ墓がある。
越前へ落ち延びてそこで生涯を終えたとの説、武蔵国吉見の吉見観音に隠れ住んだという説などもあるようです。
五日市町誌を見ているともう少し詳しく記述がありました。
『現在(佐伯区の)広島工業大学キャンパスとなっている山を岡山といい、かって三宅村と屋代村の境となっていました、この辺り一帯を御曹子(おんぞうし)山といい、東側の一角に源範頼の墓と伝える五輪塔があります。そこから≒30m上手に蒲社という小祠があり範頼を祀っていました。この社は明治43(1910)年四宝神社に合併され、更に大正4(1915)年観音八幡神社に合併されましたが、その後放置されていましたので昭和47(1972)年危険ということで取壊されいまは跡を残すのみです。
当地方の伝説では範頼は、九州流謫の途中(一説には兄・頼朝の追捕の手を逃れ九州に落ちようとして)この山の沖合まで来た時暴風雨に遭いついに死亡したので、遺骸を岡山に移した。範頼が来るという報で国司は酒樽、酒肴を整え岡山に来たが範頼は死亡していた止むなく遺骸は岬の突端に埋葬した。酒樽を引返したところに樽返しの地名が残っています。後年屋代村の浜で揖を掘出し、範頼が遭難した船のものであろうということから揖ヵ面(櫂面とも書く)と名付けた。』
とありました。また芸藩通志に二社ありと記載があり、一つはここ三宅で、もう一つは古江村翠江園の内にあると紹介しています。
2007年訪ね撮影しこの頁を編集しました。
08.10.23更新   07.03.09裕・記編集

07.02.07撮影
広島市佐伯区三宅2-1 (養護老人ホーム喜生園の横)

07.02.07撮影

07.02.07撮影

07.02.07撮影

07.02.07撮影
石灯籠をみると文政十(1827)年丁亥五月とあり江戸後期でした
(みなもとののりより)
源範頼:
(1156?-1193)
鎌倉初期の武将。義朝の六男。
遠江(とおつおうみ)蒲御厨(かばのみくりや)に成長したので蒲の冠者ともいう。
弟義経とともに源義仲を近江粟津に殺し、平家を一ノ谷・壇ノ浦に破った。義経没落後、頼朝にとりいったが伊豆修善寺で殺された。
(とおつおうみ)
遠江;
〔琵琶湖を「近つ淡海(おうみ)」というのに対して、都から遠い湖の意〕浜名湖。
また、遠江国(とおとうみのくに)。
(はまなこ)
浜名湖:
静岡県南西部にある湖。面積約69ku。1498(明応7)年の地震に伴う津波で今切(いまぎれ)口が生じ、遠州灘と通じて汽水湖となった。ウナギの養殖で知られる。



「広島ゆかりの人たちのお墓」編


「旧・五日市町」編



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