(海田市駅からの)軍用引き込み線跡

  安芸郡海田町新町から海田町寿町・(旧)安芸郡矢野町の陸軍被服支廠海田市倉庫(現・陸上自衛隊海田駐屯地)まで布設されていた山陽本線からの(軍用)引き込み線を取り上げました。
※Wikipediaによると『戦前、海田市駅から陸軍被服支廠海田市倉庫(現在の自衛隊)へ延びる引き込み線がありました。』
※広島原爆戦災誌の海田町の項目に“海田市町に陸軍需品廠約70名”とあります。
八束要さん(わたしのおじさん)が昭和20(1945)年に書き残した“原爆記”に長男(嘉光さん:旧制広島市立中学校3年)が(学徒動員で)8月6日『広島駅から海田の需品廠へ行く』とあるのです。
生前、嘉光さんに尋ねると向洋方面だったと聞いたのですが、
2021年になって海田町(矢野町にまたがる)需品廠〔現・陸上自衛隊海田駐屯地〕へ海田市駅付近から引き込み線があったことを知り「原爆記」の関連資料としてこの頁を編集したのです。
海田町史によると「陸軍被服支廠海田市倉庫」とありますが。
兵器部修理所所長だったおじさんは「需品廠」と書き残しているので、引っ掛かってしまったのです。
NET検索するとほとんどが陸軍被服支廠海田市倉庫とあったのですが。
広島原爆戦災誌に海田市町の軍施設として“海田市町に陸軍需品廠約70名”とあります。
旧制広島市立中学校3回生:石田晟さん(2008年当時基町高校同窓会副会長)の手記によると、
『・・・当時、一回生は通年動員(年間を通じて勤労学徒として出動)で、1944(昭和19)年4月から、南観音の三菱重工広島機械製作所に通勤していました。
二回生も1944(昭和19)年11月中旬には、三菱重工と陸軍需品廠(現自衛隊海田市駐屯地)に別れて通年動員されていました。・・・』
八束嘉光さんと同級生(だったと思う)石田さんも陸軍需品廠と云っておられたことが分かったのです。
Wikipedia海田町の項目に廃線として
『海田市駅南口から分岐し、鉄橋(現在はひまわり大橋に架替)で瀬野川を渡り、南大正町交差点で国道2号と交差し、海田西小学校根際を通り、自衛隊へと続いていました。
海田市駅南口が出来る前は、瀬野川手前まで軌道が残っていたそうですが、今は道路となっています。尾崎川に斜めに架かる小さな橋が唯一の遺構*です。』とあります。
尾崎川に架かる橋は、現在(2021年現在)撤去されありません。過っての橋台と思われるものは残っていますが。
現・陸上自衛隊海田駐屯地略歴  (海田町町史など参照)
1838(天保9)年 海田市に明神新開が築調されました。
1936(昭和11)年 陸軍が海田市の耕地(明神新開)15万坪、海面(8万坪)を買収しました。
  陸軍の施設が次々建設され、その陸軍の基地までの物資等を運ぶ軍事線路(引込み線)が建設。
1939(昭和14)年陸軍被服支廠海田市倉庫。
1945(昭和20)年10月6日敗戦で米軍第6軍第10軍団第41師団のうち3,500人が海田市へ進駐。
1946(昭和21)年2月から米軍に代り英国軍が進駐。
1950(昭和25)年1月旧軍用地の一部返還が決定。
1950(昭和25)年10月14日旧軍用地内に警察予備隊設置。海田市訓練所の入隊式が行われました。
1954(昭和29)年7月1日陸上自衛隊発足で、陸上自衛隊海田市駐屯部隊が発足しました。
1955(昭和30)年8月25日海田市の旧軍用地が完全に日本へ返還。
  後に岩手缶詰、広島ガス、宇部興産、西日本高圧ガス、広島鋳物工業、徳島ハムなどが進出。
現在の(瀬野川に架かる)ひまわり大橋の位置には鉄道橋があり、廃線になった昭和25年頃以降それを利用して(ひまわり大橋架橋工事で撤去されるまで)歩道橋として利用されていたそうです。
海田町略歴沿革
1889(明治22)年4月1日町村制施行で、安芸郡海田市町と安芸郡奥海田村が発足。
1952(昭和27)年6月旧奥海田村が町制施行して安芸郡東海田町となりました。
1956(昭和31)年9月30日海田市町+東海田町=安芸郡海田町が発足しました。
2003年八束要さんの「原爆記」をわたしのHPに掲載し紹介しました。
その中に(1945年8月6日)被爆当日長男嘉光さんが『広島駅から海田の需品廠へ行く』と云っていたと書き残していたのです。最初に読んだ時、海田に需品廠があったのかと思って当時健在だった嘉光さんに尋ねたことがあったのです。
しかし、広島駅からその需品廠まで列車で行ったということに頭が廻っていなかったのです。
時は随分過ぎ、
2021年Wikipediaの海田町の項目をみていると
『戦前、海田市駅から陸軍被服支廠海田市倉庫(現在の自衛隊)へ延びる引き込み線がありました。』とあり、そうだったのか広島駅から海田(市町)の需品廠まで鉄道があったことを知ったのです。
海田町には度々行っていますので、引き込み線が残っていないことは解っていましたが、引き込み線跡を歩きその残り香を探してみようと思ったのがこの頁です。
需品廠ということに引っ掛かりなかなか編集完に進まなかったのです。
海田町町史から被服支廠海田市倉庫かなと思ってはいるのですがおじさんが書き残した需品廠(の倉庫)も捨てきらないと中途半端な頁になりましたが、廃線跡を歩いたことが主題なのだと思って編集完にしました。
ただ、もう少し早く気付いて居れば、尾崎川に架かっていた鉄道橋が撮影できたかもしれないと思ったりしました。
 21.06.19.裕・記編集

(過って布設の)軍用引き込み線略図


現在の国土地理院の地図を使用しています
記入した点線が過ってあった陸軍需品廠への引き込み線        (東側に現在もあるJR呉線)
*Wikipediaでは“陸軍被服支廠海田市倉庫”と云っていますが、
(陸軍兵器部修理所所長で陸軍技術大尉だった)おじさんが昭和20年に書き残した“原爆記”では海田の需品廠と云っています。
また、おじさんの原爆記では矢野町とも言っていますので(原爆記を読んだだけのわたしが)解っていなかったのです。 
 
“山陽本線分岐部分”から“海田市駅南口”まで

海田町の避難場所・公共施設案内の一部を使用しています
この部分では、引き込み線擁壁の石積が残っています

21.06.11.撮影
ba)南北自由通路上から山陽本線につながった部分跡をみました

21.06.11.撮影
bb)ガードレールの曲がり(内側)が引き込み線跡かな?

21.06.11.撮影
bc)黄色の点字ブロックが引き込み線跡かな?

21.06.11.撮影
bd)歩道矢印方向かな?

21.06.11.撮影
be)bc画像の下の市道、法面の石積は引き込み線の名残のようです

21.06.11.撮影
bf)上画像bdの山陽本線への引き込み側

21.06.11.撮影
bg)枕木で造った柵の内側が山陽本線への接続部分?
“海田市駅南口”から“ひまわり大橋”までをみまし 

海田町の避難場所・公共施設案内の一部を使用しています
この部分では、線路跡が盛土上でその法面があったことを想像できました

21.06.11.撮影
ca)南北自由通路上から瀬野川に架かるひまわり大橋の方をみました

21.06.11.撮影
cb)(手前の曲がりまでは違いますが、その先からの)黄色点字ブロックが引き込み線の跡

21.06.11.撮影
cc)現・農協ビル前から現・ひまわり大橋(旧・鉄道橋はひまわり大橋の西側)を見ました

21.06.11.撮影
cd)〔農協ビルの駅側〕法面になっていますその上が旧引き込み線跡

21.06.11.撮影
ce)おおよそ点字ブロックが引き込み線跡 〔お店の法面前は埋め戻しているようです〕

21.06.11.撮影
cf)線路跡面と下面の法面は撤去してコンクリート擁壁になっています

21.06.11.撮影
cg)下面の窪地公園と上面が旧線路跡

21.06.11.撮影
ch)自転車置場になっている付近が旧引き込み線跡
“ひまわり大橋”から“(現在の)国道2号”まで

海田町の避難場所・公共施設案内の一部を使用しています
この部分では、線路跡が盛土上で当時の法面だったと思う処が残っていました

21.06.11.撮影
da)ひまわり大橋右岸より鉄道橋跡を想像しました

21.06.11.撮影
db)左岸下流側から海田市駅方向を見ました

21.06.11.撮影
dc)ひまわり大橋左岸側から小路(旧引き込み線跡)をみました

21.06.11.撮影
dd)法面は、旧引き込み線跡のための法面かな?

21.06.11.撮影
de)小路(旧引き込み線跡)をみました

21.06.11.撮影
df)旧引き込み線跡面と下地面の差を法面としたことがわかります

21.06.11.撮影
dg)手前(県道164号)を越えて旧引き込み線跡が続きます

21.06.11.撮影
dh)手前国道2号を越え、呉方面への高架橋下をくぐり旧引き込み線跡は続きます

21.06.11.撮影
di)先を見てdh側ではなく東側のこちらが旧引き込み線跡は続いていたのかと思いましたが?

21.06.11.撮影
dj)dhから振り返り海田市駅方面をみました
“(現在の)国道2号”から“陸上自衛隊海田駐屯地”まで

海田町の避難場所・公共施設案内の一部を使用しています
擁壁の石積 と 尾崎川に架かっていた鉄道橋橋台が残っていました

21.06.11.撮影
ea)引き込み線跡の石積み?が残っていました

21.06.11.撮影
eb)石積みの古さから引き込み線用の擁壁と思いました

21.06.11.撮影
ec)この先尾崎川に架かっていた鉄道橋(現在橋台のみ)へ続いています

21.06.11.撮影
ed)現在ガードレールで行けませんが直線上に

21.06.11.撮影
ee)現在ガードレールが邪魔ですが鉄道橋跡手前からみました

21.06.11.撮影
ef)サビが出ているガードレールが邪魔ですが鉄道引き込み線跡と思いみました

21.06.11.撮影
eg)ea画像石積上の引き込み線跡で海田市駅方面をみました
 
f)尾崎川に架かっていた鉄道橋跡 
溝のような尾崎川に斜めにかかっていたことが橋台からわかります。
一段下がっていますので上路桁橋の鉄道橋だったのだろうと思いました。

21.06.11.撮影
海田市駅側から自衛隊側の橋台をみました

21.06.11.撮影
尾崎川上流側からみました

21.06.11.撮影
両岸の橋台がみえるように撮影しました

21.06.11.撮影
海田市駅側の橋台には(道路受けの)後打ちコンクリートが見えます〔色の違い〕

21.06.11.撮影
海田市駅側の橋台には(道路受けの)後打ちコンクリートが見えます〔色の違い〕

21.06.11.撮影
下流側からみました

21.06.11.撮影
ga)鉄道橋を過ぎて現在はつくも保育所のグラウンドを通って行ったのでしょう?

21.06.11.撮影
gb)留まるライトバンの向側が鉄道橋跡だなと

21.06.11.撮影
ha)あとは現陸上自衛隊敷地へ一直線

21.06.11.撮影
hb)海田西小学校根際を通って

21.06.11.撮影
hc)県道267号越えて自衛隊敷地をみました

21.06.11.撮影
hd)向こうにもフェンスがあります(樹木が切れた処が旧引き込み線跡かな?)

21.06.11.撮影
he)自衛隊手前のフェンス前から海田市駅方面をみました

21.06.11.撮影
hf)海田西小学校根際を通って海田市駅方面に行きます

21.06.11.撮影
hg)海田西小学校根際を通って海田市駅方面に行きます



「原爆記」 (八束 要 著)


「乗り物」編



広島ぶらり散歩へ
「旧・瀬野川町附近」編


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