(瀬野上大山)吉田松陰詩詠の地・説明板

  安芸区上瀬野町上大山の河島橋西側に建立されている「吉田松陰詩詠の地」説明板です。
※2018年7月6日西日本豪雨でこの説明板のすぐ上流側の河島橋が流失しました(ので)、この説明板はどうなったのだろうかと心配しましたが、2020年5月になりましたが、みると無事でした。
明治維新の指導者を育てた吉田松陰(1830-1859)は、ここ瀬野を四度*も往来しています。
一度目は、1851(嘉永4)年3月参勤交代の長州藩主・毛利慶親〔敬親〕(1819-1871)の列に加わっていましたが、あとの三度は、罪人としての往来でした。
紹介のこの詩は1859(安政6)年5月29日安政の大獄により萩の野山獄舎から江戸の伝馬町獄舎へ護送される途上この地で詠んだものです。この五ヶ月後の10月27日惜しくも三十歳の若さで刑死しました。







 





















 







 







 







 







瀬能(せの)の山路、水相従ふ
到る處鼕々(とうとう)、石淙(せきそう)を聞く
田色遙かに青く晩夏に入る
樹陰清絶(せいぜつ)、寒冬を想ふ
歳は 奔馬の如く、連(しき)りに我を催(うなが)す
松は 蟠龍(はんりゅう)に似て容(かたち)を改めず
駕に陪(したが)ひて前年此の地を過ぐ
低囘涙あり、詩に向かって傭(ものり)し
 
  評釋         福本義亮「吉田松陰殉国詩歌集」による
瀬能(瀬野)の山道は渓流に沿うていて、到るところ、鼕々と水流の響きが聞こえている。
夏の稲田の色は青々と遠く連なっている、樹陰はいかにも清涼であって、あたかも冬の寒さのような感がする。
さて、歳月は渓流のそれの如く、また奔馬の如く過ぎ去り行きて、しきりに尊王攘夷の旗挙げを
   早く早くと催すようであって、気がせき立てられる心地がする。
また、道傍らの老松はあたかも蟠居せる龍のようであって、今も昔もさらにその容色を改めない。
自分(松陰)の守節信念も全くそのように変わりはない。
想い返せば、前(嘉永4)年三月、藩主の公駕に陪従し、兵学研究のため東行してこの地を過ぎたことがあるが、
いまは罪囚護送の身となって江戸の死獄に赴かねばならぬかと思えば、転々胸もせまり、
只低徊するのみであって、詩など作る気持ちには到底なれるものではない。
説明板にある“4度”ほど通ったとは、
1851(嘉永4)年3月5日-4月9日 萩~江戸(藩主の随行人として)
1852(嘉永5)年4月18日-5月12日 江戸~萩 
※(1853年1月26日-5月24日萩~江戸の時は岩国から船で通らなかったとか)
       9月18日-10月27日 江戸~長崎、~11月13日萩
       11月13日-12月27日 萩~江戸   
1854(安政元)年9月23日-10月24日 江戸~萩
1859(安政6)年5月25日-6月24日 萩~江戸(7月9日伝馬町獄に入牢)。10月27日刑死。
  関連頁:廿日市市大野設置)吉田松陰「腰掛けの岩」説明板  、(山口県)松陰神社の絵馬
安政の大獄 (あんせいのたいごく)
1858(安政5)年から翌(安政6)年にかけ、安政の五か国条約の調印および将軍継嗣問題に対して激化した尊王攘夷運動派に対し、大老井伊直弼(1815-1860)が行なった弾圧。連座者は公卿・志士百余名。吉田松陰・橋本左内(福井藩士:1834-1859)ら八名が処刑された。
新聞報道で、この案内板が設置されていたことをみたのですが、訪ねていませんでした。
瀬野歴史散歩マップをみると、上瀬野信号所が紹介されており訪ねようと思い、その帰りは国道2号線ではなく道幅狭いのですが旧西国街道を女房の運転の車で下って、この説明板をみようと考えたのです。
車も少ないので、この説明板を探しながら下っていきましたが、涼木一里塚跡碑のところまで下ってきましたので、行き過ぎてしまったな~~と近所の方に尋ね、教えていただき、河島橋近くということがわかり撮影することができました。
2000年5月河島橋の復旧工事がはじまったかな?とみに来ましたが、まだ復旧工事は手つかずでした。
その時すぐ下流に設置のこの説明板もみましたが、(西日本豪雨での被災からは)無事でしたので、2021年のいまになりましたが画像を加え追記しました。
2021年流失した河島橋の新設工事が行われているとき、工事用土嚢とこの説明板が一緒に写る構図で撮影できるので撮影していました。
22.11.15.更新  17.01.27.裕・記編集

17.01.06..撮影
広島市安芸区上瀬野町上大山   (河島橋北詰から西側にすぐ)

17.01.06..撮影

17.01.06..撮影
吉田松陰漢詩板(説明板)

17.01.06..撮影

17.01.06..撮影
(説明板の後ろは瀬野川です)

20.05.23.撮影
2018年7月6日西日本豪雨での被災はないようでした

20.05.23.撮影

21.12.19.撮影
西日本豪雨で流失した河島橋を撮影している時の一枚です



「文学碑など」編



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「わが町附近」編


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