大藤きずな広場

  安芸区瀬野南町に整備されている「大藤(おおとう)きずな広場」を取り上げました。
※広場は中野東6丁目と瀬野南町の境目にあります(ので)平原上第2町内会有志により整備されています。
※平原上第2町内会の“防災・一時指定避難所”にもなっています。
平原上第2町内会(安芸区中野東6丁目)は、地域的に広く緊急時避難場所は中野東小学校(安芸区中野5丁目になっています。
しかし、中野東小学校までいくには瀬野川を渡るなど距離的にも緊急時には無理な地域もあり、近くに避難場所が欲しいと思っている方々もいたのです。
1945(昭和20)年の水害時、被害のなかった大藤家の資材置場はどうかという話が持ち上がり、2017(平成29)年7月に(現在は転出されている)大藤さんを探し説明し、大藤家敷地の使用許可を得る事が出来ました。
30年間ほど放置状態だったので草木が生い茂り、資材が積まれていた敷地の整備を地域の有志ですすめ、2017年11月に“きずな広場”の整備ができました。
同じ町内会ですがわが家付近(の地域)からは、きずな広場へは上って行かなくてはならないので、瀬野川に架かる平原橋(2018年西日本豪雨にも大丈夫でした)を渡る事にはなりますが、中野東小学校が避難場所ではありますが。
きずな広場では、チューリップ祭り、焼き芋会などの催しが行われていました(が、2020年は新型ウィルス・コロナの流行で催し物は自粛中になっています。)
大藤きずな広場のすぐ下の荒れたままの畑も、地域有志の手で整備され、地域の農園となり、ここも憩いの場となっているようです。
この畑で“綿花”が収穫をまっていましたので撮影しました。
この綿花栽培を見て、女房と官立綿糸紡績工場跡を見に行った時のことを話し、綿花栽培が盛んであったと聞く当地の昔を思ったので、取り上げました。
旧瀬野川町や船越町、矢野町、海田町などのいわゆる芸南地方は、比較的雨量が少なく温暖で、しかも日当たりのよい傾斜地が多いため、昔から綿花の栽培が盛んでした。
江戸時代の中頃には、すでに大坂地方に向けて出荷され、広島藩の主要な特産品になっていたと云いますます。
そのようなことで、明治維新後近代産業の育成を目指す政府は、洋式紡績機を輸入し、国内に洋式紡績の模範工場を建設することを決め、建設地として、綿花の生産地であり紡績業も盛んであった愛知、広島両県を選びました。
英国製紡績機は、水力を利用して動かすものでした。そこで広島工場は、旧浅野藩の油搾(ゆさく)水車場のあった安芸郡上瀬野村(安芸区上瀬野町)一貫田に建設し、瀬野川の水を利用することになりました。
ところがここでは夏の水量が不十分であることがわかり、同じ村の熊野川上流の奥畑に建設場所が変更されます。その後3年の歳月を費やし、1882(明治15)年6月工場は完成しますが、完成前に広島県令の出願により、失業士族に職を与えるために建設された広島綿糸紡績会社に払い下げられました。
工場が完成すると、すぐに操業が開始されました。しかし夏には水不足のため、1か月に3日しか運転できないこさえあり、ついに明治19年(1886)に操業を中止し、施設を中区河原町に運び、蒸気機関を使って操業を再開したといいます。奥畑で紡績工場が操業された期間はわずかでしたが、愛知県の工場と共に日本紡績業の発展の先駆けとして大きな役割を果たしました。
町内会関連のことなど女房任せだったわたしですので、この“きずな広場”のことは場所さえ知らず、ここでの記事は女房からの伝聞をまとめてみたものです。
女房がまだ健在だったころ体力の低下を防ごうとわが家から上りながらこの「大藤きずな広場」へ何度か散歩していて、広場で喉を潤し、一休みして、わが家まで下ったことを思い出しながらこの頁を編集しました。
20.07.03.裕・記編集

19.10.27..撮影
広島市安芸区区瀬野南町  (中野東から瀬野に抜ける通称・大藤道沿い)

19.10.27..撮影

19.10.27..撮影

19.10.27..撮影
ベンチで一休みをして
きずな広場下の畑で栽培されていた綿花

19.10.27..撮影

19.10.27..撮影
 

19.10.27..撮影
収穫をまっていた綿



「公園・緑地など」編



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(瀬野大藤)山王神社
大藤きずな広場
官立綿糸紡績工場跡


「わが町(旧・瀬野川町)附近」編


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