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東区二葉の里の“歴史の散歩道”に建立されている「二葉あき子歌碑」です。
歌碑は、幅3.2m、高さ1.8m。碑材は、砂谷銘石。 |
碑正面: |
二葉あき子歌碑
夜のプラットホーム 作詞:奥野椰子夫 作曲:服部良一
星はまたたき 夜ふかく 鳴りわたる 鳴りわたる
プラットホームの 別れのベルよ さよなら さよなら 君いつ帰る |
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裏面: |
碑銘揮毫:広島大学元学長 原田康夫
石材提供:医療法人社団ヤマナ会会長 山名征三
二葉あき子歌碑協賛者:19社・団体 24名(3万円以上)
平成27(2015)年11月吉日建之(除幕式11月7日) 日本音楽著作権協会(出)許諾1511990-501号
協力:日本コロムビア(株) 石工事:ウエル・ユーカン(株)、砂谷銘石 音響工事;北辰映電(株) |
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趣旨板: |
二葉あき子歌碑 建立の趣旨
二葉あき子(本名:加藤芳江)は、大正4(1915)年2月2日、広島市東区二葉の里で生まれました。昭和9(1934)年、東京音楽学校在学中に日本コロムビアから『四つ葉のクローバー』と題する教育音楽を吹き込み、以降、音楽一筋の道を歩み、平成23(2011)年に亡くなるまで、昭和・平成の二世代にわたって歌い続け『夜のプラットホーム』『フランチェスカの鐘』『水色のワルツ』『さよならルンバ』など数多くのヒット曲で、わが国の歌謡史を飾る代表的な歌手として活躍してきました。
昭和20(1945)年8月6日の原爆投下の際には、父の郷里である三次市に向かう芸備線に乗車しており、列車が東区中山トンネル*に入った途端に原爆の閃光と爆音に遭い危うく難を逃れ、それ以降、反戦平和への気持ちは人一倍強く『夜のプラットホーム』『フランチェスカの鐘』は、原爆や戦争の犠牲者への鎮魂の歌として終生歌い続けてきたのです。
この碑に刻まれている彼女の代表歌の一つである『夜のプラットホーム』は、太平洋戦争時※につくられたもので、出征兵士を見送る悲しい別れの場面が連想されることから、戦時中は軍部から発売禁止されていたという経緯がありますが、昭和22(1947)年以降、彼女は『二度とこんな別れの光景を見ることのないように』との願いを込めて歌い、大ヒットしたもので、彼女の功績を讃えるモニュメントとしての意義は大きなものがあると言えましょう。
二葉あき子の平和への思いを込めて歌い続けた意思を讃え生誕100年・被爆70年を記念して歌碑を建立した。
平成27(2015)年11月吉日 二葉あき子歌碑建立委員会 委員長 原田康夫
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*関連頁:(被爆当時と余り変わっていないと思う)(JR芸備線)中山トンネル |
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二葉あき子 (ふたばあきこ:1915-2011) |
歌手。広島市大須賀町二葉出身。本名:加藤芳江。
県立広島高等女学校、東京音楽学校師範科卒業。三次高等女学校音楽教師。
レコードデビューは、在学中にコロムビアで吹込んだ「四つ葉のクローバー」という教育レコード。1936(,昭和11)年「愛の揺籃(ゆりかご)」で歌手デビュー。「高原の月」などのヒット曲をだした。1943(昭和18)年結婚し一男(紀:おさむ)をもうけるがすぐに離婚。戦後のヒット曲に「夜のプラットホーム」「フランチェスカの鐘」「水色のワルツ」などがある。
1982(昭和57)年紫綬褒章、1990(平成2)年勲四等瑞宝章を受章。 |
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2015年新聞報道で、この二葉あき子歌碑の除幕式が行われたことを知りましたので、2016年になりましたが撮影しこの頁を編集しました。 |
二葉の里地区は土地区画整理事業で劇的に変化しています。建立場所は歴史の散歩道で、以前は狭い歩道でしたが、現在はゆったりとした緑地帯道路として整備されてきています。
説明板のボタンを押すと「夜のプラットホーム」が流れる仕掛けになっていましたが、碑前にベンチなどがありませんので、碑の台座に座り(住宅地ということからでしょう音量を抑えた)歌声に聞き入りました。 |
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文学碑としては、「夜のプラットホーム」作詞者:奥野椰子夫の文学碑としてわたしの頁では扱っています。 |
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「夜のプラットホーム」は、1939(昭和14)年淡谷のり子が吹き込み同(昭和14)年に発禁になりました。
碑文にある、太平洋戦争(日本側の名称:大東亜戦争)は、1941(昭和16)年12月12日東条内閣が閣議で決定したので、時代的には日中戦争もしくは支那事変と記述した方がいいのではないでしょうか。 |
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18.05.28.更新 16.12.05.裕・記編集 |