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東区二葉の里の広島テレビ放送に建立されている「一本の鉛筆・歌碑」です。
※美空ひばりが歌ったという事で、美空ひばり歌碑という扱いでこの碑が建立されているようです。
*広島ぶらり散歩「文学碑など」編では、作詞者が松山善三ですので、松山善三・歌碑として編集しています |
美空ひばり(1937-1989) |
歌手。横浜生まれ。本名加藤和枝。
第二次大戦後、少女歌手としてデビュー。歌謡界の女王といわれた。代表曲「悲しき口笛」「東京キッド」「りんご追分」「悲しい酒」「川の流れのように」など。1989年国民栄誉賞が追贈。 |
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松山善三(まつやまぜんぞう:1925-2016) |
脚本家・映画監督。兵庫の生まれ。岩手医学専門学校中退。
川島雄三監督「接吻泥棒」、渋谷実監督「好人好日」などの脚本を手がけたのち、「名もなく貧しく美しく」で監督デビュー。代表作は、農村で生きる強い女性の姿を追った「母」、松谷みよ子原作のメルヘン「ふたりのイーダ」など。1955年高峰秀子と結婚。1995年勲四等旭日小綬章受章。 |
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善
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一本の鉛筆について
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一本の鉛筆があれば 八月六日の朝と書く
一本の鉛筆があれば 人間のいのちと私は書く |
1974(昭和49)年夏、広島テレビの呼びかけで第一回広島平和音楽祭が開かれ、ひとつの曲が生まれました。美空ひばりが歌った一本の鉛筆です。
広島平和音楽祭は、「人間愛」「平和」をテーマにした音楽祭で、出演したすべての歌手に、テーマに沿った新曲の発表を義務づけるという画期的な音楽祭でした。
「一本の鉛筆」は、音楽祭の総合選出にあたった映画監督・松山善三の詩に、作曲家・斎藤勝が曲をつけたものです。
美空ひばりは聴衆に、「二度と恐ろしい戦争が起こらないように、皆様と一緒に祈りたい。平和のためにわれ歌う」と語りかけ、切々と歌い上げました。
この模様は日本テレビ系列で全国放送され、大きな反響を呼びました。
「一本の鉛筆」は、歌謡界の女王・美空ひばりの数多い唄の中でも特筆すべき反戦歌として、長く歌い継がれています。 |
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2018年8月6日原爆忌はすでに過ぎていましたが、NHKラジオ深夜便をたまたま聞いていたら“戦争と平和を考える映画・放送の楽曲集”で美空ひばりの「一本の鉛筆」を取り上げ、広島テレビに記念碑が展示してあるという事を聞いたのです。
わたしは、“一本の鉛筆の歌碑”のことは知らなかったので、行ってみようと思ったのです。 |
広島駅新幹線口前の二葉の里に広島テレビ放送(日本テレビ系列)の新社屋ができたことは知っていましたので、その新社屋に展示されているのだろうと思い、8月26日に立寄ったのです
くしくも‘24時間テレビ 愛は地球を救う’のチャリティー番組をやっている日でしたので多くの人が集っていましたので、人が途切れた時に撮影し、この頁を編集しました。 |
19.02.09.裕・記編集 |