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中区東白島町に建てられている「昌光山・萬行寺」です。 |
萬行寺は、浄土真宗大谷派のお寺です。
知新集によると
『開基は玄徳といい、其父は毛利氏の家臣坪井玄蕃頭滿行といい知行五百石を領していました。
天正4(1576)年石山合戦の時毛利氏より本願寺顯如(けんにょ:1543-1592)上人への使いを蒙ったおり上人に接し深く帰依し師弟の契約をしました。翌(1577)年知行を返し僧となり、毛利氏のゆるしをえて高田郡吉田村に寺地をたまわり名を祐傳と改め寺号を諱のまま滿行寺としました。天正17(1589)年廣島開發の時吉田から(当時沼田郡)廣島東白島町へ移りました。吉田の寺地は嫡子祐善に譲り、二男玄徳をつれて當地に来ました。
慶長5(1600)年毛利氏が長門國へ退いた時は、祐傳祐善両人は供し、玄徳が當地に残りました。玄徳諱昌光を山号とし、寺號滿行寺を萬行寺と改めました。』とあります。 |
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戦前の地図をみると、いまの広電市内電車白島線の一筋西側に路線があったので、わたしには正確にわかりませんが、ここで取り上げた萬行寺の位置は現在とほぼ変わらないのではと思ったのです。
それは萬行寺の北西に位置する圓光寺(爆心地より1,530m)、その北側先の碇神社(爆心地より1,800m)、寶勝院(爆心地より1,820m)等との位置から推測出来るように思ったからです。
しかし戦後この辺りは電車の路線変更などと共に区画整理が行われています。 |
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石山合戦(or石山戦争) |
1570(元亀元)年から1580(天正8)年にかけ、織田信長(1534-1582)と戦った一連の一向一揆(いっこういっき)の総称。石山本願寺近辺を主戦場とする数次の石山合戦と、本願寺の意を受けて戦った諸国の一向一揆とからなる。
1570年代後半、石山は諸国の一揆を鎮圧した信長の最大の攻撃目標となった。
本願寺の主力は紀伊雑賀(さいか)衆で、毛利勢の援助を受けて戦い続けたが、しだいに敗退。長男教如(きょうにょ:1558-1614)による継戦の主張もあったが、顕如(けんにょ:1543-1592)は1580(天正8)年ついに朝廷の斡旋を受けて降服、11年間にわたる石山合戦の終結をむかえた。 |
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常楽我浄(じょう・らく・が・じょう) |
1. |
涅槃(ねはん)の四徳。常住不変の常、安楽で苦を離れた楽、自在で障りとなるもののない我、迷いがなく無垢(むく)清浄である浄。
転じて、極楽浄土にいるように何の心配もなく、のどかな生活にいう。 |
2. |
凡夫(ぼんぷ≒仏教の教えを理解していない人)が万物の真相に反して、無常を常、苦を楽、無我を我、不浄を浄と思うこと。四顛倒(してんどう)。 |
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以前(東区)牛田旭に住んでいましたのでここ広電(市内電車)白島線終点の根際にこの万行寺があることだけは、白島線に乗る時や自転車で通り過ぎ、バスの中からみていましたので知っていましたが、「ヒロシマの被爆建造物は語る」には取り上げていませんので、いままでわたしは編集していませんでした。
2011年2012年に撮影しましたので、いまになりましたが広島ぶらり散歩「広島の神社寺院」編に加えるべく編集しました。
本堂根際に建立の「常楽我浄」碑に目がとまりましたので、仏教の教えを理解していないわたしですので、辞書を引いてみました。 |
2018年久しぶりに広電白島終点付近でみたこの萬行寺お寺自体は変わりはなかったのですが、後ろ側に高層ビルが建ち風景がすっかり変わったので撮影しました。 |
19.10.12.更新 13.01.20.裕・記編集 |