(万行寺)被爆した墓石など

  中区東白島町の万行寺に残っている「被爆した墓石」などをこの頁で取り上げました。
戦後この萬行寺を含めた辺りは、市内電車の路線変更などと共に区画整理が行われていますので、参考にしている「ヒロシマの被爆建造物は語る」には取り上げていないのではと(わたしは)思っているのです。
しかし、(現在の戦後狭くなったと思う)墓苑を拝見するとお墓の建立時期や被爆の影響と思われる御影石の劣化などから明らかに被爆した墓石ということがわかります。
爆心地からの距離は、正確にはわかりませんが、圓光寺(爆心地より1,530m)よりも爆心地に近いことから1500mぐらいで被爆したと思いますが。
戦前の地図をみると、いまの広電市内電車白島線の一筋西側に路線があったので、わたしには正確にわかりませんが、ここで取り上げた萬行寺の位置は現在とほぼ変わらないのではと思ったのです。
それは萬行寺の北西に位置する圓光寺(爆心地より1,530m)、その北側先の碇神社(爆心地より1,800m)、寶勝院(爆心地より1,820m)等との位置から推測出来るように思ったからです。
被爆した(とおもわれる)墓石と戦後建立された墓石(御影石)の色から被爆した墓石だなと一見してわかるお墓が、さして広くないここ萬行寺の墓苑の中に散見されました。その一部江戸時代建立の墓石を撮影させていただきました。
また、被爆したと思われる石仏は台座には江戸時代の年代が刻まれていましたが、刻まれた順番から昭和9(1934)年に再建されたもののように(わたしは)思いました。
13.01.21.裕・記編集

13.01.18.撮影
広島市中区東白島町19-1

13.01.18.撮影

13.01.18.撮影

13.01.18.撮影
天保元寅十二月廿六日(1830年) 天保三壬辰年八月朔日(1832年8月1日)

13.01.18.撮影

13.01.18.撮影
文久三癸亥年二月二十七日 (1863年)

13.01.18.撮影

13.01.18.撮影
昭和九年戍八月■日、安永六?■■、天明四?■■、寛政■■、文化■■ 昭和9年=1934年
安永6年=1777年
天明4年=1784年
寛政(年間)=1789-1801
文化(年間)=1804-1818



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