神武天皇烽火伝説

  ここで取り上げたのは、安佐南区伴東町に位置する標高488.0mの「火山」です。
※火山には、神武天皇東征の折りの、烽火(のろし)伝説があります。
※紀元2600(昭和15=1940)年に建立された「神武天皇烽火伝説地」石碑が残っています。
 
撮影して頁を編集しようと思っていましたが、残念ながら脚力のなさから石碑画像はありません。
東征の折り瀬戸内海の難所・周防灘を抜けたカムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)について、
古事記は『阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)に七年坐(いま)す』とあり、
日本書紀には『安芸国に至り埃宮(えのみや)に居(ま)します』とあります。
記紀で宮の名前が一致せず、滞在期間も古事記は7年、日本書紀は2ヶ月余りと大きく違っています。
しかし、多祁理宮と埃宮は同一で、現在の多家神社(安芸郡府中町)と考えられています。小高い丘の上に広がる境内にはかつて松がうっそうと茂り、「誰曽廼森(たれそのもり)」と呼ばれたそうです。
多家神社は、神武天皇とともに安芸国の開祖、安芸津彦命が主祭神です。
安芸津彦の本拠地は広島市西部の火山(ひやま:標高488m)周辺といわれ、山頂には「神武天皇烽火(のろし)伝説地」の碑が建立されています。
イハレビコの一団が広島湾に入って来た際、安芸津彦がのろしを上げたと伝えられています。
廣島縣史に、『安藝都彦出迎えて奉饗せりとの傳説あり』と記述があります。
一般的伝承では安芸津彦命が烽火を上げたと考えられているようですが。
安芸津彦は神武東征に協力し、後に国造(くにのみやつこ)の地位を与えられたと考えられています。
※漢風諡号「神武」は、8世紀後半淡海三船(722-785)によって撰進された名称とされています。
祇園西公民館の資料に神武天皇烽火伝説について詳しい解説がありますので参照しました。
『神武天皇東征のころの(現:安佐南区)山本には、安芸津彦命という、安芸国の首長がいました。
神武天皇が瀬戸内海へ乗り入れ、広島に入られました。
安芸津彦命が「神武天皇の軍が来られた」という知らせを受けると、急いで五日市の倉重までお迎えに行きました。 神武天皇は「ああ、安芸津彦命が来た」と喜ばれて、地御前にお着き になりました。
そして、安芸津彦命の案内で、火山の頂上に登られ、大きな石を四方から集め、その中へたくさんの木を積んで火をたかれました。その煙はもうもうと立ちのぼりました。これは、四方の人たちに、「神武天皇は、元気でここに 登っているぞ」と、知らせるノロシだったのです。
これが終わると、天皇は山を下って「休山」で休まれて、山を下りられました。 そして、山本の「出口」から船に乗られ、祇園の「帆立」に出ると、帆をは って進まれ、対岸の戸坂に上陸されました。そこから中山峠をこえて、今の 安芸郡府中町の埃宮(えのみや)に入られたと、いわれています。
火山山頂には、これを記念する「神武天皇烽火伝説地」の石碑があります。
「休山」「出口」「帆立」は、今も地名として残っています。』
と紹介があり、祇園西公民館の資料には神武天皇自ら登り烽火を上げたと解説しています。
また、「皇紀二千六百年記念 神武天皇烽火傳説地」碑の画像の掲載もあります。
2006年安芸郡府中町の多外神社を参拝した時、神武天皇の伝承があることを知り、神武天皇に関する伝承を少しづつ知ってきています。
この火山の烽火伝説を上記、祇園西公民館の資料で知り、火山に登って「「神武天皇烽火伝説地」碑を撮影してからこの頁を編集しようと思っていましたが、腰痛がひどくなり登る自信がないことから頁に使おうと撮影していた中区白島(昔・箱島)付近、東区戸坂付近から撮影した火山の画像だけで、『神武天皇烽火伝説」碑の画像なしのこの頁を編集しました。
17.05.22.裕・記編集

13.01.19撮影
広島市安佐南区祇園3-11-1(JR下祗園駅前設置の案内板)   火山:安佐南区伴東町。武田山:安佐南区山本町

12.12.16撮影
東区戸坂惣田1附近からみた“(奥)火山と(手前)武田山”

12.02.18撮影
中区白島北町附近からみた“火山と武田山”



「神武天皇伝承関連碑など」編



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「祇園町」編






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