もうりもとなり ぼしょ
毛利元就墓所

  安芸高田市吉田郡山城跡に建立されている「毛利元就墓所」です。
(※安芸高田市は、2004(平成16)年3月1日、高田郡吉田町、八千代町、美土里町、高宮町、甲田町、向原町が合併して誕生)
戦国時代、中国地方を平定した勇将毛利元就は、郡山城で生まれ郡山城で75歳の生涯を閉じるまで戦乱の日々をこの安芸の国吉田郡山城を本拠に過ごしました。
明応6 1497 毛利弘元の二男として、3月14日生まれる
明応9 1500 元就は父弘元に連れられ多治比猿掛城に移る
文亀元 1501 母(34歳)をなくす
永正3 1506 父(39歳)をなくす
永正14 1517 元就の初陣、有田中井手の戦武田元繁を斬る
大永3 1523 宗家を相続し郡山城に入城する。この年隆元誕生
享禄3 1530 二男元春生まれる
天文2 1533 三男隆景生まれる
天文9 1540 郡山合戦起こる(9月から翌年1月まで)尼子軍敗退
天文14 1545 元就夫人(妙玖)47歳で亡くなる
天文22 1553 元就の孫(隆元の長男)輝元生まれる
弘治元 1555 厳島合戦、陶軍全滅する  ※天文24年
弘治3 1557 元就は、三人の子、隆元・元春・隆景の教訓状を与える
永禄6 1563 毛利・大友間の講和成立。九州から出雲遠征途中の長男隆元を亡くす
永禄9 1566 出雲富田城を四年に亘る持久戦で攻め尼子氏に勝利しほぼ中国地方を平定する
元亀2 1571 6月14日病気で亡くなる。墓標にハリイブキを生える。現在は枯れているが右側の白色の木
平成3(1991)年3月吉田町教育委員会
1591(天正19)年輝元(元就の孫:1553-1625)が広島に城を移した時、郡山城内にあった社寺も広島に移し、元就の菩提寺・洞春寺も広島に移していますが、墓はそのまま残しました。
また(元就の三百年忌を前に)、1869(明治2)年子孫の人たちが墓所の大改修を行い、周辺に点在していた一族の墓をまとめて現在の規模にしたそうですが、元就の墓だけは動かさなかったそうです。
元就の死後250余年の1829(文政12)年頼山陽(1780-1832)がこの墓所に立ち寄り「吉田駅詩」という漢詩を詠み、(その中にハリイブキが)既に枯れていたという表現※があるそうですから、ハリイブキはクスノキのような長生きの木ではないようですが?
※「榮上老木槁不死」
吉田歴史民俗資料館を見学した後みなさんと立ち寄ったのです。一番奥に位置する元就の墓所に近づけば近づくほど静かで、湿った空気がわたしを包んでいくように感じました。
説明板を読んで知った、墓標の代わりに植えたというハリイブキとはどういう木だろうと帰宅後広辞苑を引いてみましたがありませんでした。△□〇イブキですぐに思い浮かぶのがカイズカイブキ、このハリイブキは枯れてはいるというもののカイズカイブキの大きくなった時の幹に似ているように画像編集しながら思ったのですが・・・
 08.08.01裕・記編集

08.07.03.撮影
広島県安芸高田市吉田郡山城跡墓所

08.07.03.撮影

08.07.03.撮影
枯れたハリイブキが倒れないように
根際のシラカシの木に
緊結されています

08.07.03.撮影
広島県の「ひろしま文化大百科」を参照すると
『毛利元就墓所に、シラカシとともに既に枯死した一本の樹木が立っている。
それを地元ではハリイブキと呼び、鎌倉の建長寺とこの地にしかない、たぐい稀な名木であると伝えるとともに、いつの頃からか、この枯れ木に芽が出ると、吉田に再び御城ができ町が栄えるという伝えがあった。
ハリイブキについてはよくわからないが、鎌倉の建長寺ゆかりの木であるならビャクシンであろうかと考えられる。』とあります。
ビャクシン(柏槙)≒イブキの別名。
 



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