ごりゅうじょうあと
五龍城跡

  安芸高田市甲田町上甲立五龍山にある「五龍城跡」です。
(広島県)県史跡 五龍城跡 昭和46(1971)年4月30日指定  安芸高田市教育委員会平成22年3月設置
  本城跡は、宍戸氏の本拠地です。宍戸氏は南北朝期にこの地に移り、当初本村川の対岸にある菊山の中腹に「柳ヶ城」を築きこれに拠ったが、やがて対岸の元木山に城を築き本拠としました。
五龍城の名は、「この山に城を移したが用水が足りず、五龍王を勧請して祈願したところ、直ちに水が湧きだした」という伝承に由来したものです。
尾根筋上及びその山腹部分約700m×150mの範囲に広がる遺構は、尾根を遮断する堀切と土塁によって三つの郭群に分けることができます。
両側を堀切によって区切られる中央部郭群は、本城跡の中核をなす部分で、「本丸」「二の丸」「三の丸」などの郭名が残っています。
西側の堀切に面した本丸西端には、削り残した高さ約5mの土塁があり、堀底からの高さは16mにも及ぶものです。
西端の郭群には「御笠丸」の名をもつ郭をはじめとして、長大な郭が多く、中央部郭群と同様「御笠丸」西端にも、高さ約3mの土塁を置き、外側は土橋を持つ堀切と竪堀を設けています。
郭群東端にある司箭(しせん)神社は幼少期より兵法剣術を好み、司箭流薙刀(なぎなた)・貫心流剣術を編み出した{6代城主元家(1434-1509)の三男}宍戸家俊(生没不詳)を祀っています。家俊は広島県では唯一の武術の元祖として知られています。
五龍城は、南北朝期以後毛利氏の防長移封までの約250年間、宍戸氏の本拠として用いられました。
宍戸氏は、常陸国宍戸(茨城県西茨城郡友部町)にいた宍戸朝家が、1333(元弘3)年足利尊氏(1305-1358)と共に六波羅攻略に功があり1334(建武元)年に安芸守に任じられ甲立荘を領しました。
毛利氏も幾度かこの城を攻めましたが遂に落城させることはできませんでした。のち、1533(天文2)年に八代城主・隆家(1518-1592)と毛利元就(1497-1571)の娘との婚姻により両氏は和睦しました。所領は約十五万石にも及んだと伝えられています。
九代元続(1563-1631)は、1600(慶長5)年毛利氏が防長二州に移封の際に、これに従い周防三丘(約一万二千石)に移りました。
三次市・三次高校に建立の中村憲吉歌碑を訪ねて行く途中、交流ウォークの増田先生(が通ったという中学の近くに位置する)この五龍城の事を知っていますかと尋ねられましたが、宍戸氏は毛利氏の家臣として重きをなした一族であったことくらいしか知らないと答えたので、三次に行く途中だからと立ち寄っていただいたのです。
合併前の1990(平成2)年甲田町教育委員会の設置の説明板もあり宍戸氏のたどった歴史がよくわかりましたので安芸高田市の説明板と重複しない時代的な部分を*の処で記しました。
今回の主目的である中村憲吉歌碑、県立歴史資料館を見学することでしたから、本丸まで310mの一の段の所で引き返しましたので、本丸跡部分の撮影画像はありませんので、お許し願っておきます(余計なことでしょうが、Wikipediaには画像がありますのでそちらをみていただければと)。
2006年、わが町・安芸区中野の矢口神社境内に建立の「(静川源太郎翁)武徳碑」で司箭流という武術を知ったのです。今(2013年)回ここ五龍城跡で、その祖・家俊と繋がったのです。
13.06.26.裕・記編集

13.04.26.撮影
広島県安芸高田市甲田町上甲立五龍山      (説明板の図面を使用しています)

13.04.26.撮影

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旧国道54号線からみました

13.04.26.撮影

13.04.26.撮影

13.04.26.撮影

13.04.26.撮影

13.04.26.撮影
尾崎丸から司箭(しせん)神社をみました

13.04.26.撮影

13.04.26.撮影



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