(向原町)丸山公園
  安芸高田市向原町坂に設置整備されている「丸山公園」です。
*この頁では、「展望台」「青木群藏翁頌徳碑」「真田亀一先生之像」「電信電話設置寄附標示・碑」
      「(木製小屋組)公衆便所」「布袋の祠」を取り上げました。
*「向原町原爆死没者慰霊碑」 「満蒙開拓青少年義勇軍之碑」 「向原護国神社」などは別頁で編集しています。
安芸高田市観光協会によるとこの丸山公園を次のように紹介しています。
『展望好きにはたまらない展望台のある公園
山頂に佇むちょっと変わった作りの展望台がある公園です。その展望台からは向原町が一望できます。
公園内には芝ゲレンデや遊歩道も整備されているほか、春にはカタクリやサクラが咲き乱れ、秋には紅葉が楽しめます。
小さなお子様も楽しめる子供広場もあるので、ピクニックにおすすめです。』
-向原町略沿革-
1929(昭和4)年4月1日高田郡向原村発足(=坂村+戸島村+長田村)。
1937(昭和12)年4月1日町制施行して高田郡向原町になりました。
1954(昭和29)年3月31日有保村の一部編入(前・有留村一部分+前・保垣村全部分)。
2004(平成16)年3月1日高田郡の全6町が合併して安芸高田市が発足。(同時に高田郡も消滅)。
向原護国神社の(参道)石段を上ると本殿前で参拝した後、「戦没者慰霊碑」をみて、左手の説明板かなと思った「英霊の御前に」板でしたをみました。その横に“慰霊と歌と昭和天皇”と刻まれた石碑がありました。裏側をみると“向原町傷痍軍人会建之”とありましたので、戦没者の慰霊碑ではないことがわかりました。
また、昭和天皇の戦傷病者に心寄せた御歌が刻まれていましたので、これは「文学碑など」編に加えることにしました。
公園設置の案内図に加筆して各記念碑などを記入しました(下図)。
 20.09.18.裕・記編集

20.09.04.撮影
安芸高田市向原町坂  丸山公園

20.09.04.撮影

20.09.04.撮影

20.09.04.撮影

20.09.04.撮影

20.09.04.撮影
向原町
原爆死没者慰霊碑
向原護国神社 (向原護国神社)
向原町戦没者慰霊碑
(向原護国神社)
向原町戦傷病者慰霊碑
満蒙開拓青少年
義勇軍之碑
20.09.17.編集 20.09.18.編集 20.09.18.編集 20.09.18.編集 20.09.17.編集

20.09.04.撮影

20.09.04.撮影

20.09.04.撮影

20.09.04.撮影
(丸山公園)
展望台
(丸山公園展望台からみた)向原の町並み (丸山公園)
公衆便所
(丸山公園)
布袋の祠

20.09.04.撮影

20.09.04.撮影

20.09.04.撮影
青木群藏翁頌徳碑 真田亀一先生之像 電信電話設置寄附標示・碑

20.09.04.撮影
(丸山公園設置の案内図に加筆しています)

20.09.04.撮影
            健康の森  展望台
(丸山公園)展望台
  安芸高田市向原町坂の丸山公園に建てられている「展望台(展望塔)」です。
この展望塔は、三階建で屋上が展望所になっています。全体を木造で造ろうとしたのかもしれませんが、心柱に当たる螺旋階段は鉄骨造でした(がトラス材、床材などは木材です)。
なぜ、3階建ての展望台になったか?の考査。
一義的には、高い処から向原の町が一望できる高さが欲しかったからでしょうが、
建築基準法で、“階段でその高さが3mをこえるものにあつては高さ3m以内ごとに、その他の階段でその高さが4mをこえるものにあつては高さ4m以内ごとに踊場を設けなければならない。”ことから踊場兼用のステージを設けたのでしょう。(
そこにも休むベンチが欲しかったわたしでした。)
なぜ、木製の展望台にこだわったか?の考査。
“「公共建築物等における木材の利用の促進に関する法律」に基づく、国及び広島県の基本方針がある事から、平成24(2012)年10月1日に「安芸高田市公共建築物等木材利用促進方針」を定め、公共建築物等への安芸高田市産及び広島県産材等の利用促進を通じて、健全な森林の育成、循環型社会の構築や地球環境の保全、林業・木材産業の振興に資することを目的に策定しました。”ということでできるだけ木材を使っているのでしょう。
主目的は向原町原爆死没者慰霊碑を訪ねることでしたが、観光協会が云う展望台から向原の町を一望してみようと思っていました。
屋上に上ってみた向原の町、お・お〜〜と声が出るほどの眺望でしたので、別頁で編集しています。

20.09.04.撮影
安芸高田市向原町坂  丸山公園・展望台

20.09.04.撮影
〔平成24(2012)年度展望台屋根(展望床)の修繕が行われたようです〕

20.09.04.撮影
(脚部をみました)
(丸山公園)公衆便所
  安芸高田市向原町坂の丸山公園に整備されている「公衆便所」です。
木造で造ろうとしたのかもしれませんが、やはり腰壁・壁に当たるところは鉄筋コンクリート造として小屋組みに木材を使ったのでしょう。屋根は茅葺ではなく、カラー鉄板瓦棒葺きでした。
(その理由は、展望台の項でもいいましたが公共建築物等での木材の促進という法律にのっとって造られたのでしょう。
なぜ、木製の展望台にこだわったか?の考査。
“「公共建築物等における木材の利用の促進に関する法律」に基づく、国及び県の基本方針にがある事から、平成24(2012)年10月1日に「安芸高田市公共建築物等木材利用促進方針」を定め、公共建築物等への安芸高田市産及び広島県産材等の利用促進を通じて、健全な森林の育成、循環型社会の構築や地球環境の保全、林業・木材産業の振興に資することを目的に策定しました。”ということでできるだけ木材を使っているのでしょう。
主目的は向原町原爆死没者慰霊碑を訪ねることでしたが、駐車場手前に整備されているこの公衆便所を利用させてもたっらのです。
できてからの管理もいいのでしょう、清潔なトイレで見上げると小屋組みが木造でしたので取り上げました。

20.09.04.撮影
安芸高田市向原町坂  丸山公園・公衆便所

20.09.04.撮影
(正面)

20.09.04.撮影
明り取りはすりガラスが使われていました
(丸山公園)布袋の祠
    安芸高田市向原町坂の丸山公園に祀られてられている布袋ほかの「布袋の祠」です。
なぜ、ここに布袋様の祠が建っているのかわかりません。
まして、宗教施設が公的な公園に許されているのかはわたしにはわかりません(が)。
主目的は向原町原爆死没者慰霊碑を訪ねることでしたが、駐車場で車から降りた所でみた祠で、その前に説明板(下記)が見えましたので、近づき読むと布袋様をたたえる言葉が気でしたので、撮影したのです。

20.09.04.撮影
安芸高田市向原町坂  丸山公園・駐車場横

20.09.04.撮影
(祠)

20.09.04.撮影
 




 き



































、合














































さい





















姿











ない









































































 

20.09.04.撮影

20.09.04.撮影
布袋 大黒天

20.09.04.撮影
青木群藏翁頌徳碑
    安芸高田市向原町坂の丸山公園に建立されている「青木群藏翁頌徳碑」です。
正面: 頌徳 青木群藏翁碑
側面: 從一位勲一等侯爵淺野長勲
     正八位 石田久雄識
側面: 昭和十年四月  向原村建之閣下題字          昭和10年=1935年
裏面: 現在なし
(碑の建立当時は石田久雄が書いた碑文があったはずですが)
昭和10年建立ですので、まだ日中戦争も始まってはいないというものの戦争の足音が近づきつつあった時代背景を考えました。
この青木群藏が向原村村長だった人物だったのではないだろうかと考えました。
碑文には、日清、日露戦争への協力的姿勢を賛美した言葉が入っていた?から戦後の民主教育上まずいと削除されたのかもしれないと思ったりしました。
しかし、この碑を残したことを思えば、碑文も歴史の1頁である事から残すべきだったのではと(わたしは)他の碑でも碑文がない碑をみたとき常々思っています。
この項を編集する前、向原護国神社前に建立されている「(向原町戦傷病者)慰霊・碑」を編集しましたが、その名簿中に青木群三なる傷痍軍人の名前がありましたので、この群藏さんの三男なのかなと思ったりしました。

20.09.04.撮影
安芸高田市向原町坂  丸山公園

20.09.04.撮影

20.09.04.撮影

20.09.04.撮影
(裏面)

20.09.04.撮影
         「電信電話設置寄附標示・碑」       と        「青木群藏翁頌徳碑」
真田亀一先生之像
  安芸高田市向原町坂の丸山公園に建立されている「真田亀一先生之像」です。
※碑(台座)の建立は1972(昭和47)年となっています(が)。
  胸像の裏には昭和廿九(1954)年薫作となっています。
台座正面: 真田亀一先生之像
台座側面: 竹澤丹一書
台座裏面: 昭和四十七年八月  広島県立向原等学校 PTA・桜窓会建之
真田亀一は、1962(昭和37)年4月13日に第44 代広島県議会議長に選出されています。(広島県史より)
-広島県立向原高校略沿革-(向原高校の資料参照)
第1期 組合立向原技芸女学校時代(大正8年8月21日〜大正12年3月30日)
大正 8(1919)年 8月20日 高田郡坂、長田、戸島、3か村組合立技芸女学校として認可。
第2期 公立向原高等女学校時代(大正12年3月31日〜昭和23年5月9日)
大正12(1923)年 3月31日 高田郡坂村外2か村学校組合立高等女学校として設立認可
昭和 4(1929)年 4月 1日 学校組合坂+長田+戸島の3か村合併向原村新設の結果向原村立となる。
昭和12(1937)年 4月 1日 向原町実施による向原町立となる。
第3期 高等学校時代(昭和23年5月10日〜現在)
昭和23(1948)年 5月10日 学制改革により高田郡南部9か町村学校組合による新制高等学校として開校名称を広島県向原高等学校とする。
昭和23(1948)年11月 1日 県立移管して広島県向原高等学校と称する。
第三期の校長の氏名が資料にありましたが、その中に真田の名前はありません。
∴第二期の女学校時代の校長先生ではなかったのかと(わたしは)推測しました。
戦後、高田郡区から県会議員になり1962年県会議長に選出されたのではと思っています。
真田亀一像の作者について
像後ろには「昭和廿九年薫作」と刻まれています。
∴上田直次(なおじ:1880-1953;戦後、故郷広島県にかえる)の長男が薫ですので、上田薫ではないかと思っています。
今回NET検索すると上田直次・薫がHITして長男の上田薫(NET情報では1911-1974)ですので1954年制作にもあy手はまるのではないかと思ったのです。
2009年竹原市の文化創造ホールで上田直次作品を見て経歴を調べて、広島県在住であったこと仏像を中心に制作していたことから、息子の薫が真田胸像を受けたのではないかと推測したのです。
もともとは、向原高校関係者(校長先生として)構内に胸像が建立されていたのでは?それを県会議長にもなった時の殿政治家として台座を新しくしてここ丸山公園に移設されたのではと考えています(が)。

20.09.04.撮影
安芸高田市向原町坂  丸山公園

20.09.04.撮影

20.09.04.撮影

20.09.04.撮影
(胸像正面)

20.09.04.撮影
   「青木群藏翁頌徳碑」         と      真田先生胸像

20.09.04.撮影
(胸像裏面)

20.09.04.撮影
(制作年・作者サイン)
(坂村)電信電話設置寄附標示・碑
    安芸高田市向原町坂の丸山公園に建立されている「電信電話設置寄附標示・碑」です。
正面: 電信電話設置寄附標示  大正九年十二月竣工  坂村         大正9年=1920年
側面: (それぞれの金額を寄附した方の氏名が刻まれています)
金五百圓(1名)、金四百圓(3名?)、金七十圓、金五十圓、金百五十圓
裏面: 金二十五圓、金百四十圓(7名)、金百語十五圓(9名)、金百圓、金八十圓、金七圓
側面: 金五十五圓、金四十五圓
参考:
(給料では比べられないでしょうが)
大正末期:大卒初任給50〜60円、電話交換手35円/月。
2020年:大卒初任給約21万円
1929(昭和4)年4月1日高田郡向原村発足(=坂村+戸島村+長田村)。
1937(昭和12)年4月1日町制施行して高田郡向原町になりました。
1954(昭和29)年3月31日有保村の一部編入(前・有留村一部分+前・保垣村全部分)。
2004(平成16)年3月1日高田郡の全6町が合併)して安芸高田市が発足。(同時に高田郡も消滅)。
この石碑で、向原地区で電話が設置されたのが1920(大正9)年であったことがわかりましたので、撮影しこの項目を編集しました。当時の金500円がいまの貨幣価値ではと思いましたのでその一端を考えてみました。
 

20.09.04.撮影
安芸高田市向原町坂  丸山公園

20.09.04.撮影
「電信電話設置寄附標示・碑」       と        「青木群藏翁頌徳碑」

20.09.04.撮影

20.09.04.撮影

20.09.04.撮影

20.09.04.撮影
 



「公園・緑地など」編



広島ぶらり散歩へ
「安芸高田市」編


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