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三次市三次町(三次小学校の前)に建てられている「三次社倉」です。 |
名称:三次社倉 県指定・史跡 昭和12(1937)年5月28日:昭和59年(1984)11月19日(一部解除) |
社倉は、江戸時代に凶作・飢饉に備えて村内の者が穀物を出し合って蔵に納め自治的に処理したもので、その運用を社倉法といいました。
広島藩における社倉の起こりは、海田市の儒学者加藤岳楽の教えを受けた安芸郡矢野村の神宮香川正直の指導によって、矢野村・挿込村で1749(寛延2)年社倉法によって飢饉に備えて麦を貯えたことに由来するとみられます。その効果の大きいことを認めた藩は1770(明和7)年「社倉法示教書」を藩内に配布し、町・村ごとに社倉法を行うことを奨励したので、1780(安永9)年ころまでにはほぼ全町村で実地されることになり以後明治初年まで存続しました。
三次町の社倉は安永から天明の初めにかけて設立されたとつたえられますが、1786(天明6)年には救麦(すくいむぎ) ・永代麦として約113石(≒180.4kl)の麦を蓄えていました。
現在の建物は創建当時のものとみられ、木組などに当時の遺構が保たれています。昭和12(1937)年県史跡として指定された当時は建坪127.19uの建物がありましたが、そのうち91.09uは現在の遺構の東側に接続して頼杏坪が三次町奉行時代に建設した部分とみられるものでしたが、現在は被災したため指定解除となっています。
なお、杏坪は1828(文政11)年から2年間三次町奉行でしたが、その役宅「運甓居(うんべききょ)」(県史跡)が社倉の北方所在し、当時のたたずまいを残しています。 |
昭和61(1986)年10月1日広島県教育委員会、三次市教育委員会 |
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(しゃそう)
社倉: |
飢饉などの際の窮民救済のために設けられた米や麦などの貯蔵庫。隋の義倉に始まり、南宋の朱熹(しゆき)の社倉法に至り完備、明・清代にも継承された。日本でも享保の飢饉以降諸藩に普及。 |
(ぎそう)
義倉: |
凶年に備えて、貧富の差に応じて徴収された穀物の倉庫。また、その制度。中国隋代に始まる。日本では奈良・平安時代に設けられ、江戸時代にも幕府・諸藩で三倉の一つとして設置された。 |
(じょうへいそう)
常平倉: |
759年、公廨稲(くがいとう)の一部を割いて別置して諸国に設けられた倉庫。左右平準署が管轄。
米を廉価時に買い入れ、高価時に売り出し、その利を調庸運脚夫の救済にあて、同時に京中の米価調節を図ろうとしたもの。771年廃止。同種のものが、平安時代に常平所として設置され、また江戸時代にも、水戸・会津・鹿児島の諸藩に置かれた。 |
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広島藩の歴代藩主を調べているとき、九代藩主・浅野重晟(1743-1814)が「藩財政の立て直しのため、自ら倹約につとめ、社倉法による救荒策、絹・油などの国産振興策をすすめた。」とあったのです。
このときはじめて社倉という言葉を知り辞書を引いたのでした。
隣町・海田市の資料を見ているときに海田市の人として加藤缶楽(ふらく)の紹介が載っており「飢饉対策として藩主に社倉制度を提言した」ことを知りましたが、社倉そのものと思われる建物をみたのは今回がはじめてでした。 |
08.07.28裕・記編集 |