(鳳源寺建立の)旅順港陥落紀念碑

  三次市三次町の鳳源寺に建立されている「旅順港陥落紀念碑」です。
(にちろせんそう)
日露戦争:
1904(明治37)年2月から翌(明治38)年にかけて、満州朝鮮の支配をめぐって戦われた日本と露西亜の戦争。
露の南下政策に対して日本は英米の支持の下に強硬政策をとり開戦。
日本軍は旅順攻略奉天会戦日本海海戦で勝利を収めたが、軍事的財政的に限界に達し、露では革命運動の激化などで早期戦争終結を望み、日露両国は米大統領ルーズベルトの勧告をいれて、1905(明治38)年9月ポーツマスで講和条約を締結した。
旅順攻囲戦:(りょじゅん こういせん)
1904(明治37)年8月19日-1905(明治38)年1月1日、日露戦争における戦闘の一つ。
露西亜帝国が太平洋艦隊の母港としていた旅順を守る要塞を日本軍が攻略した戦い。
(日本の)第三軍は旅順攻囲戦の第一回総攻撃を1904(明治37)年8月19日に開始し、だが露軍の近代的要塞の前に死傷者15,000人(戦死者5,000人+負傷者10,000人)という大きな損害を受け失敗。
10月26日からの第二回総攻撃も要塞の主要な防衛線を突破するには至らず失敗、戦死者1,000人を数えた。
11月26日からの第三回総攻撃も苦戦に陥る。
戦況を懸念した満州軍総参謀長児玉源太郎(1852-1906)大将は、大山巌(1842-1916)元帥の指示を受け旅順方面へ着任。
大本営と海軍の執拗な主張を受入れ、攻撃目標を要塞北西の203高地に絞り込む。
日露両軍ともに戦死5,000人、戦傷者10,000人以上を出す激戦のすえ、第三軍は12月4日に203高地を占領(露軍戦力を決定的消耗させた)。
その後第三軍は、満洲軍総司令部の当初からの攻撃目標であった要塞東北正面の堡塁群を攻略し、1905(明治38)年1月1日、露軍旅順要塞司令官のステッセル(1848-1915)中将は降伏した。
大石良雄手植えの桜を近づいて撮影していた時に後ろ向きの石碑を見たのです、碑文刻まれているようでしたがわたしには判読できませんでした。
道路側に回り込むと「旅順港陥落紀念碑」と刻まれていました。いままで広島市内で石碑を少しばかり見てきましたが、日露戰役(戦争)に関する石碑はみていましたが、「旅順港」という具体的な地名を刻んだ石碑ははじめてみました。
碑の回りの状況がわかる画像がなかったので、2019年撮影しましたのでこの頁を更新しました。
19.05.12.更新     09.04.30裕・記編集

09.04.07.撮影

































09.04.07.撮影
広島県三次市三次町1057  鳳源寺

09.04.07.撮影
   

19.05.01.撮影
境内からは碑裏面の碑文が見えますが(わたしには)読めませんでした



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