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三次市三次町の鳳源寺に建立されている石造製「瑤泉院立像」です。 |
瑤泉院(ようぜんいん) 1669-1714 |
寛文9(1669)年三次藩主浅野長治の娘(三女)として、三次に生まれる。
母は長治の側室・お石の方。名は阿久利(あぐり:阿久里、阿久理・とも表記)。夫・長矩の死後、瑤泉院と称す。
延宝4(1676)年7歳の時、幕府から赤穂藩主浅野長矩との縁組を許され、江戸へ向けて三次を出立、江戸三次藩今井下屋敷に入る。天和3(1683)年14歳のとき、16歳の長矩と結婚。美貌と天賦の才媛により琴瑟相和(きんしつあいわ)し正室の勤めを果たすが子宝に恵まれないまま、元禄14(1701)年32歳のときに江戸城松の廊下で夫の刃傷(にんじょう)事件が起こり、屋敷を移って髪を落とし、名を寿昌院、後に瑤泉院の院号で余生を長矩並びに義士の菩提を弔い、義士の遺族に心を砕きその処遇に尽力した。正徳4(1714)年45歳三次浅野家下屋敷で死去。没日から10日間三次では鳴物高声停止令(娯楽などをつつしむ)が出され、町ぐるみで喪に服したと伝えられているそうです。夫・長矩が眠る泉岳寺に葬られまた遺髪は故郷三次の父・長治建立の鳳源寺境内に安置された。
諡号:瑤泉院殿良瑩正澄大姉(ようぜんいんでんりょうえいしょうちょうだいし)。 |
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2008年義士堂をみた時にその前に建立されているこの瑤泉院像に気がつかぬうかつさでした。
2009年よく見ると説明板にある『余生を長矩並びに義士の菩提を弔い、義士の遺族に心を砕きその処遇に尽力した。』ことを表そうとしたのか義士堂に向かって手を合わせた像になっていました。
2009年撮影画像は逆光でお顔がよくわからない画像になっていましたので、
2019年訪ねたときにはお顔がわかるようにと撮影たつもりでした。また、義士堂内の瑤泉院木像はお歳を召した時のようでしたので、この頁にも掲載しこの頁を更新しました。 |
19.05.12.更新 09.04.20裕・記編集 |