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三次市布野町下布野の‘入会の森’に建立されている「中村憲吉歌碑」です。 |
憲
吉
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入
會
之
森
碑
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入り会いの森碑由来 昭和43(1968)年10月 下布野生産森林組合 |
この一帯の森は、もと下布野村住民の入り会い地で、北は岩倉山から南は宇遠大山に及び、広さ≒1,200町歩、遠く藩政時代から薪炭柴草の豊かな供給源として村民を潤して来た処です。明治維新の後。行政区画改正による布野村の誕生とともに下布野区有林となり、大正年間の整理によって、半ばは区民各戸に分譲され、半ばは忖有林に編入されましたが、忖有林の半分は、なお区民の共用地域として残されました。下って昭和30(1955)年これが管理に当たる下布野生産森林組合が設立され鋭意造林育成に努めて今日に至りました。・・・・・(中略)・・・・・
郷土が生んだ希世の歌人中村憲吉(1889-1934)の詠歌一首を刻みここ森の中央を点じてこの碑を建てました。 |
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中村家は広大な山林を有し造林に余念がなかったそうです。
憲吉自身も造林を進めるかたわら、当時所有していた女亀山に植樹した時の様子を詠んだそうです。 |
いりあい
入会 |
入相、入合などとも書かれる。
一定地域の住民の団体(村落)が、燃料、肥料、飼料用の草木や落ち葉の採取、ウシの放牧などを目的として、一定の山林原野(入会地)に立ち入る慣習を一般に入会といい、入り会う権利を入会権という。 |
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今回、交流ウォークの増田先生との旧布野村(現在三次市布野町)での中村憲吉関連碑で最後に訪ねることになっていたのがこの「入会の森・中村憲吉歌碑」だったのです。
布野町(ed.jp)が紹介するweb siteをみて、この碑を知りましたが、場所が漠然過ぎてわからなかったので、布野図書館で館員の方に尋ねたのですが、場所が分からないのか説明自体がよくわからなかったので、布野町(ed.jp)が紹介するweb
site地図では入会の森で終点になっているので、行ってみればわかるだろうと向かったのです。
ところがどっこい上って行けども行けども道が続きついに上りきって下りになり砂利道となったので、これではきっと行きすぎたのではないかと、中村憲吉碑をみることは諦め国道54号線へと引き返すことになりました。(帰路途中に道沿いで最後にみた農家の方に聞けばこの道は、下って行けば作木まで通じているとか)
スピードが出せる道ではないので、増田先生と行きがけに何か標識があったのを見落としていたのではと、助手席のわたしはキョロキョロとみていました。上半分壊れた木製板が目に入りましたので、止まってもらい車から降りてみましたが、入会の森とは書いてなく森林組合とあり違うかなと思った時に、道路反対側に矢印が付いた「入会の森」の小さな標識を増田先生が見つけられ、矢印方向に(人間が上るだけの幅しかない)上る道がありそれを上って行ってやっとここで紹介する中村憲吉歌碑にたどり着きました。 |
国道54号線別れから最後の農家まで≒6kmくらいでそこから≒2kmは上った処だったのではと増田先生が車の走行距離メーターから推測されていましたが、同乗させていただいたわたしにはこれ以上の説明はできません。
そこで、中村憲吉記念文芸館で頂いた布野町まちづくり連合会発行「三次が育んだ歌人中村憲吉」というパンフレットの案内地図をスキャンして付けました。 |
12.07.03.裕・記編集 |