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現在三次市吉舎町の三次吉舎支所に建立されている「吉舎町原爆慰霊碑」です。
*この碑が建立された1983(昭和58)年当時は、双三郡(ふたみぐん)吉舎町(きさちょう)でした。 |
碑正面: |
原爆慰霊碑
森滝市郎書 |
碑裏面: |
-なし- |
台座裏: |
昭和二十(1945)年八月六日広島に 九日長崎に人類史上初の原子爆弾が投下され 両市は一瞬にして焦土と化し六十余万人が被爆 二十数万人が命を奪われた
この原爆によって死没された吉舎町関係の方々の霊を慰めるとともに 核兵器の恐怖と平和の尊さを後世に伝え ヒロシマ・ナガサキがくり返されないことを願い 会員が中心になり町民有志の協力を得てこの碑を建立する
昭和五十八(1983)年七月吉日 吉舎町原爆被害者の会 |
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中國新聞2016年7月31日の記事を参照すると
『三次市吉舎町の被爆者と被爆二世でつくる吉舎町原爆の会は2016年7月30日吉舎生涯学習センターで被爆者慰霊追悼式を営んだ。
全会員123人のうち、32人が参列。西家二三会長(85)は「核廃絶の思いを世界に発信しなければならない。会員は減少しているが全力を尽くす」と誓った。
祭壇には、町内4保育所から「せんそうはいやだよ」などと書かれた園児のメッセージ付きの千羽鶴が供えられた。参列者は1人ずつ菊の花を手向け、死没者を悼んだ。
吉舎町原爆の会の死没者名簿には、昨年8月からの一年間で亡くなった会員6人の名前が加わり、計443人*になった。名簿は原爆慰霊碑に納められた。』とありました。 |
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*被爆当日から(碑が建立された)1983年までの被爆死没者166名の名簿が当初納められました。 |
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森滝市郎 (もりたきいちろう:1901-1994) |
倫理学者、原水禁運動家。広島県双三郡君田村出身。京都帝大卒。
1945(昭和20)年8月6日広島高等師範学校教員時代に爆心から4km地点で被爆、ガラス片で右目を失明した。
1946(昭和21)年9月9日から治療、両眼失明の危機を回避 するため広島県双三郡吉舎町の星田病院に1947(昭和22)年1月下旬まで入院。この間に「人類は生きねばならぬ」という根本命題のもと平和運動に邁進する決意をする(著「反核30年」に記述)。
1953(昭和28)年広島大教授。1954(昭和29)年原水爆禁止広島県協議会初代事務局長、1955(昭和30)年第1回原水禁世界大会開催にむけ尽力。日本被爆者団体協議会理事長もつとめた。1991(平成3)年原水禁日本国民会議議長。著作に「反核三〇年」など。
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2004年4月1日双三郡吉舎町、君田村は、三次市と合併し三次市吉舎町、三次市君田町になりました |
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勤め人時代仕事で吉舎町役場に来たことはありましたが、同僚運転の車だったこともあり、どういう経路だったか吉舎町役場庁舎がどういう建物であったか、この碑はすでに建立されていた時代でしたが、ほとんど記憶が無くなっていました。 |
吉舎町原爆慰霊碑は参考にしている資料で建立されていることは知っていましたが、公共交通で来るとなると、Jr芸備線で三次駅まで行き福塩線に乗り換え吉舎駅で下車すれば訪ねることはできますが、そのJR便の不便さで訪ねることは実現できなかったのです。
今(2017年)回は、息子運転の車で、東広島市豊栄、世羅町経由でここ三次市吉舎町へ来ました。
役場の位置がわからずてこずりましたが、この吉舎町原爆慰霊碑は、吉舎町(戦没者)慰霊碑と並んで庁舎横に建立されていたのですぐわかりました。頭を垂れてから子の原爆慰霊碑から撮影しました。
原水爆禁止運動を導いた森滝市郎さんのことは知っていましたが関係する記念碑等に出合っていなかったので、この碑の題を揮毫したということで、広島ゆかりの人物にも加わっていただけました。 |
17.12.01.裕・記編集 |