念佛成佛是真宗・碑 (勧学・是山恵覺和上の碑)

  世羅郡世羅町にある真行寺に建立されている「念佛成佛是真宗」碑です。
※この石碑は、真行寺の住職だった勧学是山恵覺和上を顕彰した碑でもあります。
         勧学是山恵覺和上略伝
安政四(1857)年東大田村*真行寺に恵順・初野の長男として生まれる。十五歳の時、福間浄観師に見出され、京都大教校に学んだ後、豊前の松島善譲師に師事する。二十七歳で真行寺住職となり、本堂を落成し、子弟の教育のために光宣寮を開くとともに、呉の石泉僧叡遺著を研究し世に知らしめた。五十五歳で勧学を授けられ、真宗学の学頭ろして龍谷大学の教授・本願寺顧問を勤め、勧学寮および宗学院を創設した。また、幼少の門主の保傳として本願寺を支える。昭和六(1931)年七十五歳にて往生する。         
     平成二十一(2009)年十月 釋宗憲建立
*1955(昭和30)年大見村・西大田村・東大田村が合併して旧世羅町になりました。
法照(ほっしょう:8世紀ごろ唐代の僧)の「浄土五会法事讃(ごえほうじさん)」に“念仏成仏是真宗”とあるそうです。
是山恵覚(これやまえかく:1875-1931)
1871(明治4)年教専寺住職の福間浄観に入門し、宗学を学ぶ。
1875(明治8)年師に従って京都に上り、西山別院内の教授校や大教校で学業を続けた。
のち一時的に崇信学校の教員となる。
1879(明治12)年より大分の松島善譲に師事し、宗学研究を再開。
1888(明治21)年父の死で真行寺住職を継ぎ、寺内に光闡寮を開いて後進を指導。
1896(明治29)年真宗の大学林教授。
1900(明治33)年仏教大学(後の龍谷大学)教授就任。浄土真宗学の第一人者と云われる
1919(大正8)年教授の職を退く、後は勧学寮長・宗学院長を歴任。
著書「往生論註講義」「往生礼讃講録」「安心決定録講話」などがある。
真行寺行事案内板の中に貼ってあった「人との出遇いが人を育てる」という言葉に目が留まったのです。
お寺の歴史はわからないだろうが撮影するかと車から降りた駐車場でみたのが「念佛成佛是真宗」碑でしたので、碑文(上記)を読んで、この頁を編集しました。
道の駅世羅にすんなりと入ることができれば、このお寺を知りことも立ち寄ることもなかったでしょうが、渋滞が取り持つ何かの縁を(浄土宗徒のわたしですが)感じながらこの頁を編集しました。
 16.05.10.裕・記編集

16.05.04.撮影
広島県世羅郡世羅町寺町1490  真行寺

16.05.04.撮影

16.05.04.撮影



「広島ゆかりの人たち」編



広島ぶらり散歩へ
(是佛山)真行寺
  念佛成佛是真宗・碑
康徳寺古墳
(瑞田山)康徳寺
  (康徳寺)雪舟庭
  康徳寺薬師堂


世羅郡世羅町編


inserted by FC2 system