伝・康徳寺雪舟庭

  世羅郡世羅町にある康徳寺の庭園「雪舟庭」です。
※この庭園は、雪舟が築造したと伝えられています。
康徳寺には、雪舟築造と伝えられる庭園があり、五月躑躅、百日紅など様々な自然が、静閑な禅寺の雰囲気を作り上げています
雪舟は、修業時代の一時期、旧甲山町青近の円満寺に籍を置き、(旧世羅町の)康徳寺と関係の深かった旧甲山町三川の萬年寺とも親交を結んでおり、康徳寺三代住職仁仲和尚のもとに足を運んだという記録が残っています。
上記は、康徳寺の資料を参照しました。
雪舟せっしゅう1420―1506*) *1502(文亀)2年とする説もあるようです
室町時代の禅僧、画僧。僧位は知客(しか)。中国から水墨画の技法を自己のものとし、山水画を大成した画人。諱は等楊(とうよう)。備中国赤浜(現・総社市)に生まれ。幼少時上洛、相国寺に入り、春林周籐(しゅんりんしゅうとう)についたといわれる。ここで禅僧としての修行、画を周文に学んだと考えられる。40歳以前の画歴はなお不明の点が多い。
「雪舟」の号は、愛蔵していた元の名僧楚石梵(そせきぼんき)の墨跡「雪舟」の二大字にちなみ、1462(寛正3)年ごろ友僧・龍崗真圭(りゅうこうしんけい)が雪舟二字説をつくっていることから、これ以降この号を用いたとみられる。
1464(寛正5)年にはすでに京を離れて山口に住んでいたらしく、周防国の守護大名大内教弘(のりひろ:1420-1465 )の庇護を受けて、雲谷庵(うんこくあん)とよぶ画室を営んでいる。
1467(応仁1)年48歳春、遣明船「寺丸」に便乗して入明、寧波(ニンポー)を経て北京に上った。北京では皇帝の命により礼部院の壁画に筆をとり、広く賞賛を得た。また禅僧としても、四明天童山の第一座に推された。
滞明は3年に及び、1469(文明1)年に寧波経由で帰国。
1476(文明8)年には大分にあったようで、ここで天開図画楼(てんかいとがろう)という画房を開き、以後、美濃、出羽など各地を漂泊、『鎮田瀑(ちんだばく)図』(大分県)や『山寺図』(山形県)などの真景図を描いた(これらの作品は模本が残されている)。86年67歳のとき、畢生(ひっせい)の名作『四季山水図(山水長巻)』(国宝、山口県・防府毛利(ほうふもうり)報公会)を制作、また『天橋立図』(国宝)は描かれた図様から1501(文亀1)年以降の景観を写したと考証される。この年雪舟は実に82歳で、おそらく当地を訪れたと考えられている。
真行寺行に立ち寄り、その後康徳寺古墳を見学したのち、ここ康徳寺を訪ねたのです。
お寺門前で雪舟庭園”「うめもどきの庭」の標識をみましたので、拝見し撮影してこの頁を編集しました。
ツツジが咲いておればと思いながら庭園を拝見しました。うめもどきの庭とありましたが、その開花時期でもないようでしたので残念な時に見学したように思いました。
 16.05.13.裕・記編集

16.05.04.撮影
広島県世羅郡世羅町寺町1386  康徳寺

16.05.04.撮影
 中世禅の庭:雪舟庭「梅もどきの庭」

16.05.04.撮影
須弥山に見立てた岩?が配置されている 

16.05.04.撮影

16.05.04.撮影
(鯉が寄ってきました)

16.05.04.撮影

16.05.04.撮影

16.05.04.撮影



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