(府中町歴史民俗資料館)麒麟麦酒関連、腕用消火ポンプ
  安芸郡府中町本町の府中町歴史民俗資料館に展示されている「麒麟麦酒関連資料類」です。
※工場に設置されていたという「腕用消火ポンプ」も下段に編集しました。
※2010(平成22)年までは小規模ビール製造施設がありましたが、2011年には解体されています。
            キリンビール株式会社
(本社)設立:明治40(1907)年2月23日。広島工場:開業昭和13(1938)年6月5日
キリンビール広島工場は、西日本の製造拠点として、1938(昭和13)年から1998(平成10)年まで約60年間府中町にあった麦酒醸造(他・清涼飲料水)工場です。
主要製造工場でなくなった後も、1998(平成10)年から2010(平成22)年まで、小規模な麦酒醸造は継続されました。
1935(昭和10)年キリンビールは九州進出を計画しましたが(横浜山手工場、神崎工場、仙台工場に次ぐ全国4番目の工場として)、広島県安芸郡府中村に1937(昭和12)年進出を決定しました。
理由として、福岡県には他社(大日本麦酒・博多工場)の工場が既に進出していた事などで、軍都であった広島市と呉市が共に約20万人の人口を持ち、戦争の進捗で近いうちに周辺の人口が70万人を超える事が予想された事で、広島市へ編入が考えられた府中村への進出となったそうです。
第二次世界大戦中も、ビールの醸造および清涼飲料水の製造は継続されましたが、清涼飲料水は1942(昭和17)年1月と1943(昭和18)年2月、3月一時的な製造中止後、1944(昭和19)年3月以降製造を中止。ビールも減産および、材料のポップの確保が困難になった事で味が淡泊になり、1945(昭和20)年4月軍部指令で、飛行機などの燃料として使われるアルコール生産の指示を受けたが、困難である事からトラックに使われるアルコールの製造指示に変更された上で、同(1945)年6月より、アルコールの仕込みを中止。アルコール生産に転換しましたが、敗戦で、実際に燃料として使われる事は無かったそうですが、完成したアルコールを試飲して味が良好だったため、「更正酒」として主に社員に配布、物々交換の品として活用されたそうです。
1945(昭和20)年8月6日8時15分米軍の原子爆弾投下で、コンクリート造および鉄骨造の建物に関しては窓・出入口・壁・屋根などの破損。木造の建物は、全壊・半壊・傾斜など、主に爆風による被害を受けました。火災被害に関して無かったことで、施設に関しては比較的軽微な被害でした。ただ、人的被害に関しては、従業員に関しては、死者5名・重軽傷者若干名、従業員家族の死者が55名出たそうです。
2006年(わたしは)はじめてここ府中町歴史民俗資料館を見学した時に麒麟麦酒の瓶が展示してあるので、見たので、府中町歴史民俗資料館の頁に一緒に編集していました。
2011年訪ねた時に、腕用消火ポンプに目がいきましたので、消火ポンプも取り上げたこの頁を新たに編集しました。
12.03.29更新   12.02.16裕・記編集

06.03.14撮影
広島県安芸郡府中町本町2-14-1  府中町歴史民俗資料館

11.10.01.撮影

11.10.01.撮影
キリンレモン、ラガー、一番搾り、広島じゃけんなどなど
腕用消火ポンプ
(手引き腕用)消火ポンプ
大正末期から昭和初期頃まで使われていた、旧型の消火ポンプです。昭和13(1938)年の(キリンビール)広島工場建設の時、万一の場合に備え設置されました。
2010年南区の広島市似島臨海少年自然の家で、似島で使われていた手引き腕用ポンプをみていましたので、ここ府中町歴史民俗資料館で、以前見たよりも少し簡易な(飾りがない)ように思った腕用消火ポンプが展示されていましたので撮影したのです。
キリンNo.3とあることから少なくとも三台は備え付けられたのだなと思いました。

11.10.01.撮影
安芸郡府中町本町2-14-1  府中町歴史民俗資料館

11.10.01.撮影

12.03.03.撮影



「資料館など」編



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府中町歴史民俗資料館
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「(安芸郡)府中町」編


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