(府中出張城城主) しらい ちかたね
白井親胤之碑
  安芸郡府中町宮の町の出張城跡に建立されている「白井親胤之碑」です。
表面: 千葉氏白井加賀(守)親胤之碑
裏面: 皇紀二千五百七十八年後裔古田樂次郎再建之 皇紀2578年=1918年=大正7年
出張城跡は、室町時代中頃の応永年間(1394-1428)に安芸守護武田氏に従って下総国(現・千葉県)から西下してきた白井加賀守胤時(たねとき)が初代城主となった城跡で、以後170年間に渡って府中を中心に領内を治めたと伝えられています。
中世の史料では、府城、国府城、芸府城などと記され、(現在の)宮の町一丁目と宮の町三丁目の境の古山陽道沿いを出張市と呼んでいたことから、出張城の呼称は、近世の字名からとったものと思われます。出張城は、標高34.5mの小高い丘にありました。本丸を中心として数段の郭(くるわ)を設けていますが、現在では宅地や畑となって往時の面影はちかめません。
城主の白井氏ははじめ守護・武田氏に属していました。そのため出張城は一族による仁保城(広島市・黄金山)とともに広島湾頭において銀山城の防禦線の役割を果たしていました。ところが安芸武田氏の勢力が衰え、周防国の大名・大内氏が影響を及ぼすようになると大永年間末(1527年)には大内氏に従属するようになり、佐東郡の牛田・山本などに領地をあたえられ、(地理的な関係から)水軍を重視し、仁保島城を中心に、その海域を通過する商船から通行料を徴収していたと考えられています。しかし、天文20年代以後(1551年〜)は次第に毛利氏に領地を奪われ、天文24(1555)年厳島の戦いでは、陶氏方に属して毛利元就(1497-1571)に抵抗しましたが敗戦、後に毛利氏に帰順して小早川隆景(毛利元就の三男:1533-1597)の傘下に入ったと伝えられています。
*上記資料は、府中町教育委員会設置の説明板と府中町の他の資料を参考にしました。
府中町のWEB SITE「ふちゅういろいろ収蔵館」に写真入りで紹介がある「白井加賀守親胤の名が刻まれている石碑」も見たいと思い、出張城跡を探しました。教育委員会設置の説明板はわかりましたが、白井加賀守親胤の碑が何処に建立されているのかが分からなかったので、府中町歴史民俗資料館でスタッフの方に伺ったのですが、わからないということでした。
2012年6月になって交流ウォーク下見で訪ねましたので、三度目になりますが探してみようと思ったのです。
本丸跡への道も整備はされていませんでしたが、教育委員会設置の説明板の処から頂上の平地(本丸跡と思われる処)に上り、下りながら碑を探しましたが見当たらず、説明板が設置されている平地(もとの郭と思われる)処に建立の墓碑をみていきました。その中に、この碑がありましたのでやっと探したなと思いました。
13.02.10.裕・記編集

12.06.02.撮影
広島県安芸郡府中町宮の町3-6  出張城跡(下)

12.06.02.撮影

12.06.02.撮影

12.06.02.撮影

12.06.02.撮影

12.06.02.撮影



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