たどころみょうじんしゃ
田所明神社
  安芸郡府中町石井城に鎮座している「田所明神社」です。
祭神: 飽速玉命(あきはやたまのみこと)
安芸津彦命、槻瀬明神、大国主命、市杵島姫命、宇迦之御魂命、事代主命
当神社は、135年頃(第13代成務天皇)阿岐国造※として奉命された飽速玉命を主祭神として七柱の神を守護神として祀られています。
飽速玉命の子孫爾後五百年広島市佐伯区五日市三宅に住み、朝廷より田所職を置かれ、大化の改新の後府中に国庁が置かれました。田所家は代々その職に任じられ、故に家号としました。往古田所職は、厳島明神、速谷明神、多家神に永代勅使代として、神祭に臨み政務を司りました。
田所総判官代信職をはじめ歴代国府上卿職は厳島神社の定勅使を勤めました。中古より国庁神社の神事を中心に氏子の農耕養蚕商業によって生活の基礎が進められてきました。
1916(大正5)年11月に国庁神社(厳島遥拝所)、槻瀬明神、大黒社を合祀して、田所明神社として現在地に建立。
田所氏は、奈良時代以前の安芸国造であった飽速玉命の出自(姓佐伯氏)と伝え、佐伯氏は国司制度が確立してからは佐伯郡司に任命され、また厳島明神・芸州国府八幡祭祀のときは国府泰幣使代も務めました。
平安時代のはじめ頃田所氏(田所氏は姓を佐伯のほか三宅、石井とも称し、平安期の職名「田所」を本姓としたと伝わり)は五日市から府中に移り、以後国府の在庁官人として安芸国の政治を掌るとともに、厳島神社の厳島国府上卿として祭主も務めました。
今の石井城跡の地に広大な屋敷を有し1072(延久4)年に国庁神社を建立、朝夕長官をはじめ約40人の所従が厳島の方向に向かって礼拝していました。
1690(元禄3)年に現在の地に移り(芸州厳島絵図に明神殿は厳島遥拝所と記されています)、現在の社殿は1998(平成10)年再建。明神祭、秋季例大祭をはじめ月次祭などが執り行われています。
阿岐とは、安芸(ほぼ現在の広島県西半分)のことで、古く古事記に阿岐と記載されているそうです。
こくちょう
国庁
律令において、令制国の中心地である国府には、国司が政務を執った国庁等によって区画されていました。国庁とその周りの役所群を国衙(こくが)といい、それらの都市域を総称して国府といいます。
現在は、役所群のほうを国衙、都市のほうを国府と分けて用いていますが、国府と国衙を同一視する説もあるようです。
くにの
  みやつこ

国造
【国の御奴(みやつこ)の意】
大化の改新(645〜646年)以前における世襲制の地方官。
地方の豪族で、朝廷から任命されてその地方を統治した。大化の改新以後は廃止されたが、多くは郡司となってその国の神事もつかさどった。くにつこ。こくぞう。
しょうけい
上卿
1 朝廷の諸行事・会議などの執行の責任者として指名された公卿(くぎょう)。
  列席した公卿中の首席の者が選ばれた。
2012年3月府中公民館で頂いた「あきふちゅう史跡めぐり」を参考に交流ウォーク下見で立寄り、参拝しました。
神社根際の駐車場に設置してある「広島県重要文化財・紙本墨書(しほんぼくしょ)田所文書」の説明板を読んでいる時、田所宮司が(お出かけのようでしたが)交流ウォーク下見のわたしたちをみられ足を止めて、田所明神社のこと、田所文書のことなどをご教授していただきました。
同(2012)年6月にも参拝し、4月に頁を編集する時紹介画像が足らないと思っていたので撮影していたのです、2015年のいまになりましたが、この頁を更新しました。また、田所明神御神水(田所名水)の頁を別頁で編集しました。
15.02.23.更新    12.04.22裕・記編集

12.06.02.撮影
広島県安芸郡府中町石井城1-2

12.06.02.撮影

12.03.03.撮影

12.03.03.撮影

12.03.03.撮影

12.06.02.撮影

12.03.03.撮影
設置の説明板をみている時、田所宮司がおられ、田所明神社の由来などを教授していただきました



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