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安芸郡府中町千代に過って築かれていた「千代城跡」です。
*久しぶりに2019年説明板が新しくなり、説明文も変わっている処がありましたので、取り上げました。 |
歴史の散歩道 千代城跡(Ruin of Sendai Castie) 府中町教育委員会 |
標高38.2mの千代山に築かれた白井氏の城跡です。
芸藩通志(1829年=文政12年)の府中村絵図に「千代山・古城跡」と記されています。当時は、鹿籠山と丘続きでしたが、山陽本線により*分断されました。
南西中腹に仁保城に向かって郭の一部および崖下に雁木と思われるものが残存しています。
戦国時代、大内氏により国府(出張)城主・白井備中(房胤力)が滅ぼされ、その子白井万五郎が一時居城、のち毛利氏に降ると云われています。
国府(出張)城の出城・見張り的な役割をもっていたと思われます。 |
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-新しい説明板- 歴史の散歩道 千代城跡(Ruin of Sendai Castie) 府中町教育委員会 |
標高38.2mの千代山に築かれた中世白井氏の城跡。 文政12(1829)年編纂の芸藩通志の府中村絵図に「千代山・古城址」と記されています。当時は、鹿籠コゴモリ山と丘続きでしたが、明治時代に山陽鉄道(現JR山陽本線)敷設により分断されました。
千代城は、白井備中守の居城(出張城)の支城とされ、白井一族の有力武士が武田氏の水軍(警固衆)として、黄金山に築かれた仁保城(城主・白井越中守義胤ヨシタネ)とともに広島湾頭の海上警護に当たりました。
しかし、後年、仁保城は大内水軍に加わり数々の武功をあげて大活躍する一方で、武田氏方にあった千代城は大内・毛利軍との合戦に敗れましたが許され、白井備中の子・萬五郎が城主となりました。 |
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山陽本線は、1894(明治27)年6月10日糸崎駅 〜広島駅間が延伸開業しましたので、その前に説明板にあるここ千代城跡を分断する土工事が行われたのでしょうね。 |
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ruin: |
1 (自然に生じる)破壊,(建造物の)倒壊,崩壊;破壊された[荒廃した]建物[町など];
残骸(ざんがい);落ちぶれた人,敗残者
2 ((〜s))遺跡,廃墟(はいきょ).
3 [U](健康・地位・名誉などの)喪失;破滅,破産 |
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ここ府中町千代に知人が住んでいたのですが、千代城があったという事は、広島ぶらり散歩「府中町」編の頁を編集しだして(わたしは)知りました。
この辺りの前が海で埋立で海が先の方になったという事は聞いてはいましたが、説明文にある雁木が何処であるのか(あったのか)をいまは聞く事が出来ないほどわたし自身が歳をとってしまった事を思っています。
説明板にある英文“Ruin”を辞書で引くと破壊されたとあります。この千代城の事を知ってからも山陽本線には何度も乗り、県道164号線を車で通っても戦国時代を思い浮かべることなどできない現代の街並みだなと思いながらこの頁を編集しました。
2019年県道を歩いていて、この辺りに千代城跡の説明板があったなとみていて、説明板が新しくなっていましたので、撮影しました。説明文も以前のものと違う部分がありましたのでこの頁を更新しました。 |
20.01.05.更新 12.02.11.裕・記編集 |